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12月26日 早天礼拝

ヨハネの福音書 14章12〜24節
「わたし自身を現します」
 
ここに貫かれているメッセージは繰り返し語られています。
それは大切だからです。
 


「口が酸っぱくなるほど」とか「耳にたこができる」という表現があります。
そんなに繰り返すのは、わたしたちは1度聞いて理解し、合点ができ、腑に落ちるわけではないからです。
聞いていても、生活に結びつかないことがあります。
学ぶだけでは身につかないのです。
生活の中で学んだことを思い起こし、結びつけることが大切です。
「こういう場合にはどうしたらいいのですか?」
「聖書はこう語っているのではないか?」
と考え、み言葉がどう教えているかを理解していくことによって私たちは成長します。
しかしそれを実行する人は少ないのです。
学ぶけれど、現実と結びつかないのです。
 
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」14:21
 
イエスご自身が「わたし自身を現します」と言われています。
イエス様が私の生活の中に共におられることが実感されるということです。
リアリティを持たないクリスチャンは多くいます。
観念的にはわかっても、実感していない人です。
イエスがご自身を現される条件は
「戒めを保ち、それを守る」
ということです。
keepすること。
持ち続ける、バランスを保つ、ずっと維持すること。
それを守る=大切にする、攻撃から守る、実践する。
これがキリストを愛することの具体的な現れです。
 

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」14:13
 
「求めているのに与えられない」
と憤っている人はいないでしょうか。
このみ言葉の流れの中で「求める」とは、「父の御心を求めそれを行うこと」を言っているのです。
主との共同のわざをすすめるために、個人的なことではなく、主のために何かをしようとするとき、主は力を貸してくださる、いえ、共に働いてくださるという意味です。
それが実際に分かるということです。
 

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」歴代誌? 16:9
 
主のためにしようとすることを、主は祝福してくださいます。
では、自分のやりたいことはできないのでしょうか?
そうではありません。
自分の賜物、自分の方法で実践することに個性と豊かさがあるのです。

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12月19日 クリスマス礼拝

ルカの福音書 2章8〜20節
「飼い葉桶のみどりご」
 


普通にあること、毎日のことに感謝するのは難しいものです。
日常の中に主の恵みはたくさんあります。
それに気づくことが、信仰です。
目に見えないけれども、恵みと祝福を下さっている上のわざに目をとめて、心に納めることです。




 
豊かになると、貧しかったときのことを忘れます。
最初は感謝していても、やがて、少しでも欠けると不平不満の言葉が漏れてしまいます。
 
私たちはクリスマスの度に、尊い御子をよに遣わして下さったことを思い出します。
十字架と復活で命を与えられたことを。
キリストの誕生を通して人の人生は変えられます。
私達は変わる事が出来ます。
先程見た「クリスマスキャロル」のスクルージがそうです。
自分の生い立ちの中にある傷と過去を見せられ、このままでいたらどうなるかという結末を見せられることで、スクルージは生き方を変えていきました。
その転機は「感謝されている」姿を見たときに訪れました。
そのときに、人生の意味と目的を知ったのです。
人のために生きなければ滅びに至るということを。




 
クリスマスのメッセージは、「わたしたちは変わることができる」ということです。
「神が私を見ておられ、心にとめて祝福しようとしておられる」
これを受け取ることです。
「私は愛されている。大切な存在だと見ていて下さる」ということを知ることです。
 
クリスマスといえば、「羊飼い」と「東方の博士」が思い浮かびます。
この人選には意味があります。
キリストの誕生を知らされた人は多くありません。




 
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」2:10




 
「この民全体」という言葉がキーワードです。
主は、2つのグループの人々に最初に救い主の誕生を伝えました。
上からと、下から。
そこからじわじわと広がっていくように。
 
東方の博士は、「異邦人の王達」とも言われています。
彼らはユダヤの支配者ヘロデ王に救い主が生まれたことを伝えました。
 
今日の主役は羊飼いです。
当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。
ローマによる支配は、平和をもたらしました。
共和制を取り、他民族であってもローマに忠誠を誓えば市民権を与えました。
大きな帝国の隅々までその支配は及び、そのために大規模な住民登録が行われたのです。




 
羊飼いは、ローマの支配が及ばない人々でした。
定住することのない遊牧民。
ユダヤ教会の定期的な祭事にも参加しないので、ユダヤ今日からも破門されていました。
国中の人々が、住民登録のために故郷に向かっている最中、彼らは何事もなかったかのように羊の番をしていました。
御使いは、ローマの支配からも、ユダヤ社会からもこぼれ落ちた人々に、「民全体のための」喜びを伝えたのです。
「全て」の中には「私」も入っています。
一人も漏れることはありません。




これは、「教会の中だけでなく、身近にいる人々に福音をのべつ耐える必要がある」というチャレンジです。
 
上の恵みと愛を失った人の中にイエスの恵みが注がれるとき、人は変えられました。 
教会は特別な人が来る場所ではありません。
全ての人が来ることができる場所でなければなりません。
私たちの教会は、一国の首相からホームレスの人まで、全ての人を受け入れることができるでしょうか?
今は無理かもしれません。
でも、その準備をしておく必要があります。
全ての人々に伝えるということは、全ての人々を受け入れる備えをするということです。
限られた人との交わりではなく、全ての人々に開かれた心を持てるようにすることです。
広い心と力を与えてください、という祈りが必要です。




 
私たちは2003年に作業所を始めました。
続ければ続けるほど落ち込みました。
圧倒的な「なすべきこと」の前に、できることはごくわずかだったからです。
保健所の方は「この地域は遅れているから」と言われました。
焼け石に水・・・そんな気持ちでした。
イエスは人々の為に自分の「神」としてのあり方を捨ててご自分を無にして労してくださった。
力の限界はあるけれど、主のされたことを自分のヴィジョンと重ね合わせていく必要がありました。




 
今英会話をしているカートは、日本への留学から帰国するとき
「また日本の宣教のために帰ってくる」
と言いました。
その言葉通り戻ってくれたカートがこの教会にいることで、海外で救われた人々が日本に戻ってきたときこの教会に来れるための備えとなりました。




 
多様な人々を受け入れるとき、多様な人々が導かれるようになります。
だからこそ、今いる人々を大切にしなければなりません。
「その人がいるから導かれる人を、主は先に送って下さっている」
と考えましょう。




 
生い立ちも、主からの賜物です。
特殊な環境に育ったからこそ見え、感じられるものがあります。
自分が体験していないことは思い浮かびさえしないからです。
辛い経験をしなければ、同じ経験をした人の心に届きません。
主は、それを「辛い経験」のままにはせず、人々の祝福のために用いようとしておられます。
経験の意味を変えていただくのです。
人々が、慰められ、励まされ、立ち直るように。
過去を取り消すことはできませんが、その意味を変えることはできます。
それが福音の本質的な力です。
あなたを必要としている人がいるのです。




 
羊飼い達は、御使いの言葉を聞いて幼子を捜しに出かけます。




 
「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼い葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」2:16




 
この「捜し当てた」という言葉が、個人的に大好きです。
彼らの「語って下さったことを見てこよう」という信仰はすばらしいと思います。
聞いたとき、約束を見に行こうとするかどうか・・・そこに分かれ目があります。
その約束は、実感できないし、分からないけれど、確認しに行こうという行動。
一歩踏み出す歩み。
一歩踏み出さないと実感は生まれないのです。




 
彼らに「しるし」として示されたのは「馬小屋の中」ということでした。
もしも「あま市に幼子が生まれた」と言われたとしたらどうでしょう?
カーナビはありません。
「勘ナビ」だけが便りです。
手分けして探したのかもしれません。
方々探して、「ここだ!」と見つけたのです。




 
信仰には冒険に富んだものがあります。
自らの生涯の中で探し当てるのです。
探す喜び、見つけ出す喜びがそこにあります。
「幸せは歩いてこない」
という歌がありますが、自分から受け取りにいくのです。
与えられた幻を達成するために取り組むのです。
創意工夫をして挑戦するのです。




 
羊飼いは全てを伝え、ヨセフとマリヤは、主がなお導いて下さっていることを確認しました。
「男の子を産む」
と言われ、引き受けたものの、マリヤも不安になるでしょう。
あまりにも現実とのギャップが大く、神の言葉との間には開きがありすぎます。
「救い主」のはずなのに、泊まるところさえなく馬小屋にいるという現実。
主は、マリヤがその使命を果たせるように、羊飼いを使者として送られました。
羊飼いは神のメッセージを伝えました。
「神に用いられる幼子なのだ。」と。
確かに主が導いておられると、確信を与えてくださったのです。
その後も、主は時に叶ってマリヤに助け手を送られます。
博士達を。
シメオンを。
アンナを。




 
全てを主の目的のために用いていただけるように求めていきましょう。



12月12日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 14章8〜15節
「神のわざを行う」
 
今は待降節です。
救い主キリストを待ち望んで過ごす時です。
しかし、私たちにとって、クリスマスはすでに成就した過去のできごとです。
私たちは、待ち望むと言うより、キリストがお生まれになった記念として祝います。
誕生日を祝うように。
 



誕生日を祝うのは誰でしょうか。
最初は親が、子の誕生を祝います。
自分より先に生まれた人が、新しい命を待ち望み、その子の誕生と成長を祝います。
やがて、祝ってもらう側から、祝う立場に変わっていきます。 
 
かつてイスラエルの民は神の約束を信じて待ち望んだように、私たちは再臨を待ちます。
救いの業は十字架で完成しましたが、全ての造られたものに福音が述べ伝えられ、世の終わりが来ます。
その時を私たちは待ち望んでいます。
旧約時代には、イエスの訪れと救いを待ちましたが、新約の時代には、まだ福音を必要とする人々のために、救いを待ち望みます。
この時を福音を宣べ伝える機会としてしていきましょう。
 
さて、今祈り会ではピリピ人への手紙の2章から、クリスチャンの心構えを学んでいます。



「自分のことだけではなく、他の人のこともかえりみなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
ピリピ2:4,5



私たちは、「今」という同時代を生きています。
でも、そこから多くを学びとれる人と、学びとれない人がいます。
困難の中で学べる人と、倒れてしまう人がいます。
それは心構えによります。
 
「ピリポは言った。『主よ。私たちに父を見せてください。』」14:8
 
このピリポの質問から、イエスは弟子の心構えを教えられました。
ご自身の模範を示しながら。



「神を見せてください。」は、私が2人の友人から受けた質問でした。
私自身は神を知っていて、信じているけれど、うまく話せませんでした。
自分の満足や、自分の納得で満足していたからです。
受身の信仰で終わってしまうことはよくあります。
それは成長の妨げになります。
ちゃんと備えていないと、質問に答えられません。
どうすればうまく伝わるか、を考えなければなりません。
「自分がわかる」という段階から、他の人が満足し、理解し、祝福されるように変わっていくのです。
人のためにプレゼントを探すという立場への変換です。
 
「『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「わたしたちに父を見せてください。」と言うのですか。』」14:9
 
ずっとイエスと時間を共有してきた弟子なのに、分からないことに、イエスは驚かれました。
 
「・・・わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自身のわざをしておられるのです。」14:10
 
イエスは、自分の言いたいことをいい、やりたいことをやったのではありませんでした。
それは「不自由」なことでしょうか?
自分のやりたいことをやらないで、幸せになれるでしょうか?



わたしたちは、やりたいことをやれるのが自由だと錯覚しています。
自分でものを考えているようでも、わたしたちは育った環境の中で様々な影響を受けています。
ソムリエをしている方の話を聞いたことがありますが、味覚は親が幼いころに何を食べさせたかで決まると言うことでした。
育った経験をベースにして判断しているのです。
また、ある時電通の方がCMの定義を次のように言ってました。
「本当は必要でないものを、あたかも必要であるかのように思わせることである。」
と。
わたしたちは自分の意思で商品を選んでいると思っていますが、実はCMに振り回されていることに気づきません。
 
自由の本質は、父の御心を語り、父のみわざを行うことです。
みことばを正しく知り、それを語ること。
父がよいとされることを実行すること。
それが自由です。
 
自分と他人を生かすものを選ぶのです。
が、時と状況によって、その現れ方は違います。
そこに自由があります。



わたしはこの名古屋西教会に遣わされて、様々な取り組みをしてきました。
もし、別の教会で奉仕していたとしたら、同じことをすると思いますか?
遣わされた場所によって、選択するものは変わってきます。
人も、地域も、状況も違うからです。
この教会と同じことはしないでしょう。
画一的ではないのです。
その人自身が、主の言葉を聞き、主に対する感謝をするようにするための、マニュアルはありません。
指針は揺るぎませんが、具体的に何がその指針にかなうかは、私たち自身が判断しなければなりません。
これこそが、「一致と多様性」ということです。
「父のみこころを語り、みわざを行う」という点では一致しますが、その表し方は人それぞれで異なるのです。
 
料理で、交わりで、もてなしで表す人もいるでしょう。
人と話すのが苦手な人なら、会場のセッティングで表す人もます。
どの表し方をするにしても、心構えは必要です。
祈りながら判断するとき、何がふさわしいかは自ずとわかります。
 
「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」14:12

これは大切な使命です。
私のわざに、キリストの愛が表れているか?
行動に、言葉に?
プレッシャーになりますか?
プレッシャーは感じなくてもいいのです。
内側に持っていれば、意識しなくてもキリストの光は放たれていきます。
見せようと思わず、普段通りでいいのです。
 
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神の物であって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
コリント? 4:5〜7



キリストの光は私たちを通して輝き出ます。
キリストの香りとして表現されます。
内に与えられた心構えのとおりに生きようとすれば。
 
イエスのすばらしさは、一人では表せないから、12人の弟子たちの個性と賜物で表しました。
多様な賜物の中に、キリストの恵みが表れていきます。
地の塩、世の光と言われる私たちですが、「見せる」ということではありません。
これが福音の奥義です。
本気でみ心を求めてやろうとすれば、一見不自由に見える中に、自由があるのです。



12月5日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 14章 1〜9節
「神を信じ、またわたしを信じなさい」
 
「信じる」というときに、2つの見方があります。
・自分が信じる。自分が従う。自分がする。
・誰を信じるか。



 
「信仰があればそれでいい」とは聖書は言っていません。
だれを、何を信じるのかが大切です。
日本には
「鰯の頭も信心から」
ということわざがあります。
信じる心さえあれば、何を信じてもよいと考える人は多いのです。
そのような信じる心を「信心」と呼びます。
聖書が教えているのは「信仰」、「信じて仰ぐ」ということです。
仰ぐべきお方は創造主です。
 
自分の願望ではなく、神のくださるものを信じて受け止めることが大事です。
自分の理想の神を作っておがむこと・・・それが偶像です。
「私の願う祝福を、神はくださるに違いない」という信じ方は偶像崇拝と同じです。
自分でストーリーを作り、自分の筋書きにないことは望まないのです。
神の筋書きを手にするには、神ご自身を信じ、その導きを信じなければなりません。
 
私と家内は結婚前から、神学校を卒業したら郷里の茨城に帰って伝道するするために祈っていました。
茨城に帰ることを疑う人は、周囲にも誰もいませんでした。
卒業の4か月前までは。
そのとき、草加福音自由教会の副牧師としての誘いを受けたのです。
自分の計画にはないことでしたが、
「主は新しい道に導こうとしているのではないか。」
という思いに立って祈りました。
 
神学校で学ぶうちに、私は
「自分が述べ伝えるべき『福音』って何だろう?教派の教理なのか?」
と考えていました。
ご存じのように、私は福音自由で育った者ではありません。
副牧師として誘ってくださった先生から読んでおくように言われた、福音自由教会の信仰告白を読むと、私がそれまで聖書宣教会で学んだことから得たことと一致しました。
 
私が草加教会に行くという報告をした時、「なぜ?」と言われました。
「てっきり郷里に帰るものだと思っていた。」
と。
「なぜ、今までかかわりのなかった福音自由に行くのか?」
と。
私の答えは
「主の導きだから」
でした。
 
「自分の行きたいところ」ではなく、素直な心で主の導きに従うのです。
もし主が御入用なら、力をも与えてくださるはずです。
主の御計画があることを知り、導きに応える必要があります。
 
さて、イエスに
「私が行く所にあなた方はついて来ることができない」
と言われた弟子たちは衝撃を受けたことでしょう。
肉の思い、肉の力では全うできないと。
弟子たちは仕事も、家も捨てて従ってきました。
それでも「ついて来ることはできない」と言われたのですから。
彼らは「死の覚悟もできている。」と言い切っています。
それだけの覚悟が私たちの心の中にあるでしょうか。
たとえ、「ついていきます!」と答えても「今はついて来られない。」と言われたのです。
弟子たちは見はなされたような思いになったことでしょう。
 
しかし、イエスは
「心をさわがせずに受け止めなさい。」
と言われました。
神を、イエスを、信じるようにと。
心が騒ぐ場面でこそ信仰は養われます。
「なぜこんな立場に立っているのか?」
とか投げ、悩むとき、静まって祈り、思いを巡らすのです。
そこに道を見つけるでしょう。
 
「ついてこれない」という言葉には二重の意味があります。
?十字架の道について来られない(苦難)
?十字架の死と復活は神の国の備えであり、天に返って住まいを用意するため。そこには来られない(天国)

 
「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」14:3
 
「イエスのところに私もいます!」
という告白が信仰です。
信仰には波もあります。
私たちの側からだけ、手を差し伸べているのだとしたら、離れることもあるでしょう。
私たちの思いの前に、神からの選び、神の御手があります。
 
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリストイエスが私を捕えてくださったのです。」ピリピ3:12
 
捕えようとする、従おうとする、その背景に、それを得られるようにとイエスが捕えてくださっているのです。
 
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」14:6
 
「来る」と言われています。
イエスは父の側におられます。
イエスは神の側におられる方なのに、私たちの側にこられ、父のみ元に行けるようにしてくださいました。
 
一昔前の「中国残留孤児」の肉親捜しを思い出します。
戦後の混乱の中、中国に置き去りにされた子どもが、自分が日本人であると知った時、実の親に会いたいと思い日本を訪れました。
肉親が見つかる例は少ないのですが、見つかるのは、
「私の妹かもしれない。」
と、日本人の肉親の側から名乗り出てくれた場合だけです。
自分の力では何ともならないのです。
 
神を探し求めても、自分の力だけでは見出せません。
イエスが遣わされたのは、そこしか道がないからです。
それは十字架のあがないによって作られた道なのです。



11月28日 聖日礼拝

マタイの福音書 6章19〜21節
「神の国の民にふさわしい賜物の使い方」
               村井義信神学生
 
東海聖書神学塾での学びも5年目に入りました。
説教学で学んでいることからお分ちしたいと思います。
 



さて、先日、鄭文子先生の娘さんである金さんが日本に来ておられました。
金さんはとてもしっかりした方で、韓国では永楽教会の執事をしておられます。
その金さんが、いよいよ日本を発つことになり、滞在していたK姉が空港まで送って行ったんです。
いざ、出発してしばらくすると、大変なことに気付きました。
金さんは、大治教会のスリッパをはいたまま来てしまっていたのです。
飛行機の時間もあるし、今更引き返すわけにもいかず、結局K姉のはいていた靴とスリッパとを履き替えて旅立ちました。
あんなにしっかりした方でもこんなことがあるんですねえ。
ひょっとしたら、金さんが残していった靴は高級な靴で、「損した」と思っているかもしれません。(笑
 
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
マタイ6:19〜21
 
この個所は「山上の説教」と呼ばれているところです。
「山上」と言っても、それほど高い山ではなく小高い丘で、その上から群衆に向かってイエスは話されました。
神の国の民として住む人はどのような心掛けで生きるべきか、を教えています。
宝とは、賜物ですが、それはいったい何でしょうか?
どこにたくわえるのでしょうか?
 
宗教改革者、マルチン・ルターは「人は救われる」とはどういうことかを『キリスト者の自由』という本の中にこう記しています。
「信仰により、キリストと人とが1つとなり、キリストの宝と祝福は私のもの、私の不徳と罪はキリストのものとなった。」
視覚的に言うならば、この右手にのせている聖書を罪とすると、このように右から左の手へと聖書を移すように、罪は私のもとからキリストのもとへと移りました。
そして、あらためて左にあるキリストの救いの恵みが、右の手へ、私へと移される。
金さんのスリッパとK姉の靴を取り換えたように。
 
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」エペソ1:3
 
わたしたちはすべての宝を天から頂き、天にはもう残っていません。
宝とは、すなわちキリストの全ての恵みです。
わたしたちは「罪・罰・死・死の呪い・苦しみ・悲しみ」をキリストの預けました。
そして、「赦し・命・喜び・神の子としての身分」を頂きました。
さらに人それぞれに「冨・能力・地位・名誉・業績」も与えられています。
ではそれをどう使うのがふさわしいでしょうか。
 
「宝を地上にたくわえるのはやめなさい。」とは、自分の満足・安心のためにだけ蓄えるのはやめるようにという意味です。
当時「宝」としてイメージされたのは「衣服」や「硬貨」でしょう。
衣服には虫が付き、貨幣はさびます。
 
ではどうすればいいのでしょう。
 
「天にたくわえなさい。」
こう言われても、分かったようで分かりませんね。
さっきと逆を考えてみましょう。
つまり、宝は人のために使いなさい、ということです。
 
私たちの模範であるイエスは、全てを人に与えられました。
命さえ。
イエスが人となって地上に来られたのは、私たちの模範になるためです。
人として、イエスは苦悩されました。
十字架を前に、ゲツセマネの園で、血の汗を流して祈られました。
人としては死を恐れていたけれども、「主の御心なら従います」と祈られたのです。
人は、死は怖い。
病気はいやだ。
お金は欲しい。
「でも、主の御心なら」という生き方をするようにと言われているのです。
 
与えられた才能、身につけた教育も宝でしょう。
ある医療宣教師の女性がいます。
幼いころに献身し、医学の道に進みました。
それは、医療を通して主に仕えたいと望んだからです。
私たちは、何のために勉強するのでしょうか。
何のために働くのでしょうか。
 
私たちは、本来は主のものである「賜物」をゆだねられています。
そのうち十分の九は、自分のものとしてもよいとされているのです。
天国には口座があって、主はそこに貯金してくださっています。
天に帰った時に明らかにされます。
地上では損したように思うかもしれませんが、天にはたくわえられていて、それは永遠になくなりません。
 
主は、私たちが何かをしてあげなければ困るような方ではありません。
私たちが献金しなければ、主が破産するわけでもありません。
ある時、私も試されました。
住宅ローンが口座から落ちなかった時です。
心がいつも神様に向いているかどうか。
お金をどう使うかということより、本当に主を愛し、信頼しているか。
神と人を愛する生活に向かっているか。
それが、宝の用い方でわかります。
だから、神の国とその義とを第一に求めるのです。
 
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」コリント? 4:5
 
ここで書かれていることに、「裁かれるのではないか。」と恐れるべきではありません。
「人知れずした善が、主には覚えられてる」と言っているのです。
通帳に記入済みだからです。
「イエスを信じる者は裁かれない」と、聖書は書いてあります。
よいわざの評価がされるのです。
賞賛と褒美がいただけるという約束です。
 
「損」はありません。
できないことは書かれていません。
できることをすればよいのです。
「どれだけ自分のために集めたか」ではなく、「どれだけ他人のために失うか。」が問われます。
クリスチャンでなくても、それを実行する人もいます。
私たちは、聖霊によってそれができるはずです。
 
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てたものはすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」マタイ19:29
 
これは命令ではなく、約束なのです。



プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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