12月27日 年末感謝早天礼拝

コロサイ人への手紙 3章17節〜4章1節
「感謝の心を持って」
 
「感謝の心を持つ人になりなさい。」
3:14
 



どうすれば感謝の心を持てるでしょうか?
これに続く箇所には、具体的な人間関係について、あるべき姿が描かれています。
・妻:夫に従いなさい。
・夫:妻を愛しなさい。
・子:両親に従いなさい。
・父:子を怒らせてはいけません。
・奴隷:主イエスに仕えるように主人に仕えなさい。
・主人:奴隷に正義と公正を示しなさい。
ここで言う奴隷は、北アメリカにおける黒人奴隷のような存在ではありません。
むしろ、現代で言うならば被雇用者と捉えたほうがよいと思います。
ですから、奴隷と主人の関係は、サラリーマンと上司と考えて下さい。
妻が夫に従うとき、夫は妻を心から愛するでしょう。
そして、妻は夫に愛されていることを感謝することができるはずです。
ここには、「感謝できることを捜す」生き方が示されています。
 
多くの人は、「感謝できるような状況にしてもらわなくては、感謝できない。」と考えます。
他人任せ、状況任せ。
「誰かが○○してくれたら、▽▽する。」
「感謝するようなことなんて見あたらないからできない。」
という、受け身的な生き方です。
いいことがあれば、うれしい。
良くないことが起こると、落ち込む。
まるでジェットコースターのようにめまぐるしく気分が変わります。
 
聖書が教えるのは、「環境を変える」のではなく、「自らする」生き方です。
「夫に従う」ことから感謝が生まれます。
「妻を愛する」ことから感謝が生まれるのです。
 
「あたながたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」3:17
 
ここでは、最終的に「神さま、感謝します!」と言えるように行動せよ、と言っています。
感謝できる状況を待っているのではなく、任されたことに一生懸命取り組みながら。
他人任せで、棚からぼた餅を期待するのではなく。
感謝できるように、精一杯取り組むことです。
今自分に与えられている物は、主が許して与えてくださったのだと考えましょう。
何かを為そうという思いがあるのなら、主が与えられた志として受け止めて、感謝に結びつくように取り組みましょう。
感謝を生み出せるように、自らの行動を制御できるように。
感謝というゴールを目指して、あらゆる人間関係の中で、自分をコントロールしていきましょう。



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12月20日 クリスマス礼拝

ヨハネの手紙第一 4章7〜16節
「神の愛のあかし」
 
「愛のない者に愛はわかりません。神は愛だからです。」4:8
「キリストは、私たちのために、ご自身のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」4:16
 



クリスマスおめでとうございます。
イエスは「インマヌエル」と呼ばれるかたです。
それは「神がともにおられる。」という意味です。
イエスの誕生そのものが、「神がともにおられる。」というメッセージです。
イエスは十字架に架けられた後復活し、
「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20
と約束されました。
そして、イエスが天に帰られた後にも聖霊を遣わし、私たちの内に住んでくださいます。
 
クリスマスカラーと言えば、「赤・白・緑」ですね。
それぞれにはちゃんと意味があります。
赤は十字架で流された血による贖い。
白は罪の赦しによってきよめられた魂。
緑は永遠のいのち。
 
私は幼い頃からずっと神さまを信じてはいましたが、主が御子さえおしまずに与えるほどに愛されているということを知ったのは中三から高一にかけてのことでした。
みなさんは自分の価値というものを知っていますか?
私たちの中にある価値を奪うもの…それは劣等感です。
それを隠すために背伸びし、明るく振る舞ってごまかそうとするのが人間です。
でも、主は全てを知った上で「あなたは私の目には高価で貴い。」と言われるのです。
 
私たちは値札を見て、そのものが高いか安いかを判断します。
「安い」と思うのは、値段よりも物の価値が高いからです。
主が私のために払ってくださった代価は、ご自身の御子でした。
それほどに愛してくださっているということです。
「賜物」というと、まっさきに「才能」が思い浮かびますが、痛みや苦しみも「賜物」です。
そいうものがあるからこそ、他の人を励まし、助けるために輝けるようになるからです。
健康、豊かさ、才能、地位を求めてもかなわないとき、それも賜物です。
そうでなければ知ることのできない知識や経験があるからです。
失敗も含めて全てを通して、今の私がいるのです。
たとえ「なぜなのか」は分からなくても、主が教え、励まし、導いてくれます。
辛い経験を力に変えられるようにしてくださいます。
だから、自分を愛し、受け止めていきましょう。
 
私が神学生だったころ、ある先生が交通事故を起こしました。
先生は悩み苦しみ、牧師をやめようかとさえ考えました。
ところが数年後、その教会の熱心な青年が交通事故を起こしたのです。
その時、先生は自分の経験はこの時のためだったのだと知りました。
同じ経験をしているからこそ、その悩みも苦しみも共有することができたからです。
意味のない経験は一つもありません。
 
ここにロウソクがありますが、ロウソクだけではその価値を発揮することはできません。
火をともしてこそ価値があるのです。
でも、だれかが火をともさなければ、ロウソクは自分で光ることができません。
イエスがいのちの光をともしてくださらなければ。



12月13日 聖日礼拝

イザヤ書 53章4〜12節
「主のみこころは彼によって成し遂げられる」
 
不安な状況にあるにもかかわらず、それを乗り越えるには希望が必要です。
イスラエルの救いを待ち望んでいた老人シメオンも、女預言者のアンナも、生涯の終わりにとうとう念願がかなって幼子イエスに会うことが出来ました。
二人はゆるがない希望をもっていたのです。




旧約の時代の人々はメシヤ=キリストを待ち望んでいました。
キリストが来られた後に生きる私たちは、感謝をします。
そして、約束が実現したことを忘れないように、記念日としてクリスマスを祝います。
同時に私たちは待ち望むこともしています。
私たちが待っているのはイエス様の再臨です。
 
主の救いは全ての人々にもれなく与えられています。
しかし、強制はされていません。
要らないという人に押しつけることはできません。
「私も下さい」と申し出ることが、すなわち信仰です。
拒否せずに受け取るということです。

 
「主のみこころは彼によって成し遂げられる」53:10
「みこころ」とは何でしょう?
どう実現するのでしょう?
イエスが来られたとき、人々が抱くメシア像と主の計画の間にはギャップがありました。
弟子でさえ、理解していませんでした。
イエスに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」
と尋ねられて、ペテロは

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」マタイ16:16
と答え、イエスに褒められました。
しかし、この後イエスがご自分の使命(人々の罪のために苦しみ、殺されるということ)を話されると、ペテロは

「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」マタイ16:22
とイエスを諫め、始めました。
そしてイエスに、
「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
と叱責されてしまいました。
 

神のみこころは、人間には想像だにできないことです。(53:13)
「だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」
53:4
「十字架は失敗だった。」
と言う人々がいます。
でも、だれでも、どうでもいいもののために犠牲を払うことはしません。
自分がどれほど愛されているかを知らず、自分を卑しめることは的はずれなことです。
 

「私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。」
53:6
自分勝手な道に進むことが、すなわち罪です。
「自分の考えを捨てよ」という意味ではありません。
自分の考えを大事にしながら、神の国の実現のためには何を優先させるべきかを考えるのです。
 
「苦しみ=罰」だという理解は間違っています。
苦しみにあうとき、それは大きな祝福のご計画の一部だといくことを覚えておきましょう。
主は、私を用いようとしておられるのだと。
私たちは、頭の中だけで理解していても、経験しないと分からないことがたくさんあります。
私は今年、階段を7段落ちて腰を痛めました。
痛めて初めて、腰がどれほど大切か分かりました。
一カ所具合が悪いだけで、全身が辛いという経験をしました。
苦しみを通して、「今まで分からなかったことが分かるようになる。」という見方をしましょう。
また、教会には苦しみ悩む人がいるからこそ、様々な人が教会に来ることができるのです。
健康で動ける人がバリバリやるだけが、教会の成長なのではありません。
多様な人々が支え合うことが、教会の「成熟」なのです。



12月6日 聖日礼拝

サムエル記第2 7章12〜16節
「王座は永久までも堅く立つ −ダビデの子孫−」
 
祝福や恵みがあるということは、神さまが私たちに期待しておられるということを表しています。
知恵や財力や賜物を与えられているとすれば、それらは人々を助けるためです。
苦しみも賜物の中の一つです。その苦しみを経験した自分だからこそ支えられる人がいるはずです。
 




私は牧師の息子として生まれ育ちました。
「先生の息子」と呼ばれ、日曜日に遊びに誘われることはありませんでした。
日曜日には礼拝があることを、友達はみんな知っていたからです。
受け入れられる自分と、受け入れられない自分との間で二分されていると感じることもありました。
人間は「本当の自分」を追い求めます。
しかし、自分で受け入れられる自分も、受け入れがたい自分も、両方とも主が与えられた尊い「私」です。
主は、全てを含めて愛してくださっています。
むしろ、自分に受け入れられない部分が用いられます。
ある先生が
「人と同じ事をしてはだめだ。」
と言われました。
「初代のクリスチャンには初代のクリスチャンにしかできないことがある。
3代目には3代目にしかできないことがある。
それは、前の代の上に積み上げていくことだ。」
と。
こうした葛藤があったからこそ揺るぎない自分がいます。
悩み、苦しみは恵みにつながる計画です。
今はわからなくても、やがて気付くのです。
 
先週学んだアブラハムから、ダビデへ、そして、その延長線上にイエスがいます。
私たちが見る者は一部です。
主は全てご存じの上で計画を実現してくださいます。
「石橋を叩いて渡る」ということわざがありますが、かつて私は「石橋を叩いても渡らない」と評されていました。
しかし、今は「神を信頼して吊り橋でも渡る」人に変えられました。
自分の経験、理解という狭いところを出ることをまなびました。
失敗を恐れないのは、主が失敗さえも用いられるからです。
無謀になれという意味ではありません。
ここぞ、というときに一歩踏み出す、ということを言っているのです。
 
聖書の預言は、今の現実だけでなく、将来の姿も描いています。
 

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。」7:12
(1)ソロモンによる実現
  ダビデの子、ソロモンはイスラエルの王国を確立しました。
  しかし、アッシリアに滅ぼされバビロンに囚われました。
  その後1945年まで、地球上に「イスラエル」は存在しませんでした。
(2)イエスによる実現
  これはイエスによって再建される「神の国の王国」の預言でもあります。

 
「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
7:13
(1)ソロモンによる実現
  ソロモンはそれまで幕屋の中に納められていた「神の箱」のために神殿を建設しました。
  しかし、今残っているのはその神殿の壁のみです。
  それは「嘆きの壁」と呼ばれています。
(2)イエスによる実現
  「神殿」は新約の時代における「教会」を表しています。
  それは、建物としての教会ではなく、キリストを通して集められた神の民による集まりです。
 

「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」7:14
(1)ソロモンによる実現
  ソロモンは主に何でも求めるものを与えると言われたときに、知恵を求め、与えられました。
(2)キリストによる実現
  イエス自身がご自分を「神の子」と呼ばれました。

  「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
  イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」
ヨハネ5:18
  さらに、私たちはキリストにより、アブラハムの子孫に加えられました。
  「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」ガラテヤ3:29
  私たちは、その祝福を受け継ぐ者です。
  御言葉を学び、父との関係を保ちましょう。
  今も契約は生きています。



11月29日 聖日礼拝

創世記 22章15〜18節
「あなたの子孫によって−アブラハムの子孫−」
 
主はアブラハムに、生まれ故郷を出て主が示す地へ出て行くようにと命令を受けました。
それには
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、
あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。」
12:2
という約束が伴っていました。




アブラハムはその約束を得るために旅立ったのです。
そして、その約束が実現した場所が、ここ、「アドナイ・イルエ」と名付けられた場所でした。
アブラハムとサラが長い間待ち望み、老年になってようやく与えられたひとり子イサク。
主は、その子をいけにえとして捧げるようにという酷な要求をしました。
アブラハムが、イサクを祭壇にのせ、まさに刃を振るおうとしたその時、主はアブラハムを止めました。
「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないで私にささげた。」22:12
アブラハムがふと目を上げると、角を藪に引っかけて身動きが取れなくなっている雄羊が目に留まります。
彼はその雄牛を、イサクの代わりに祭壇で捧げたのです。
その時に主が告げられた約束は
「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、私は確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。」22:17
主はここで「確かに」という言葉を加えて、約束を確実なものとされました。



「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」ヤコブ2:17
アブラハムは、主から授かった「約束の子」であるはずのイサクを、あえて捧げることで主への信仰を示しました。
イサクを自分のものにし、握りしめ、安住することなく従ったのです。
もっと広い世界へ、殻を打ち破って出て行くのです。
 
自分の生活を守ることに精一杯で内にこもっていたら、どうやって世界宣教が進むでしょうか?
自分の価値観や習慣に留まるのではなく、従って一歩踏み出すとき、主が整えてくださいます。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということをあなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
ヤコブ1:2〜4
行く先が分からなくても、まず踏み出して信仰を持つとき、その信仰が練られ、確かなものとなります。
「これで十分」ということはありません。



プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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