12月28日 年末感謝礼拝

コロサイ人への手紙 3章12〜17節
「感謝の心を持って」



苦しみに遭うことは避けたいものです。
しかし、苦しみあうことによって、初めて自覚できることもあります。
それは神の愛、兄弟姉妹の愛です。
そして、それらを自覚するとき感謝の心が持てるようになります。



「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」3:12
私たちは、「聖なる、愛されている者として」選ばれました。
それを知るために、主は私たちが苦しみに遭うことを許されることがあります。
それは、失敗や困難に遭わないとわからないから、失敗や困難から神を知ることが出来るからです。
「聖なる者」は「聖人君子」ではなく、神に属する、神につながる者です。
神が聖であるから、私たちも聖なる者になり、神のような考え方をする者になるようにというのです。
たとえ、自分が、あるいは他人が、私をどう見ようとも、主は私を愛してくださいます。



「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」3:15
ある方が最近初めて教会に来られました。
その方は、
「信仰を持てば病気は治りますか?」
と問われました。
私の答えは…
「治りません。」
でした。
たちどころに、きれいさっぱり、その場で治るという意味においては、です。
信仰を持てば、問題がすべて無くなっていいことばかりになる…ということはありません。
但し、もう一言付け加えました。
「私にも不安や恐れはあります。
でも、それに勝る感謝や平安が満たされています。
だから一歩踏み出すことが来ます。」
「人生を振り返ると真っ暗で希望がない。」
とも言われました。
悪いことばかり目にとまることが確かにあります。
しかし、神は
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4
と言われます。
新しい生き方を学ぶことで「よいこと」を見つけられるようになります。
そして、喜びと平安で一歩踏み出せるのです。



「キリストの平和が心を支配するように」
何が私たちの心の主導権をとっているでしょうか?
不安や恐れでしょうか?
恵みでしょうか?
少なくとも6:4で生きましょう。



「感謝の心を持つ人に」
いつも感謝の意識を持つことです。
どんな状況でも、神がともにいて導いてくださいます。
そのことに目をとめることが出来るセンスが問われています。
同じ経験をしても人それぞれに受け止め方が違います。
それは…
目に見えない主を見ようとする姿勢。
探し、求め、叩く姿勢。
「主はこのことから何を教えようとしているのか?」と仮名が得る姿勢。



「いつも喜ぶ」なんてムリ。
そうかもしれません。
でも、「いつも喜びを見いだしていく」ことはどうでしょう?
「たえず祈る」なんてムリ。
でも、ふと思いついたとき、その場で祈ることはどうでしょう?
私は運転しながらでも、畑仕事をしながらでも祈ります。
もちろん目を閉じてなんていられませんが、心を静め、ひとことでも祈ります。
「すべてのことに感謝する」なんてムリ。
感謝できないことだってあるでしょう。
でも、感謝できることも見つけられるはずです。
たとえば、病気の中で信頼できる医師に出会うとか。
大きな事ばかり期待して、小さなプレゼントに目がとまらなくなっていませんか?
感謝を見いだす心を持ってみましょう。



そうなるために大切なのは、良い習慣を身につけることです。
キリストの内にあるような愛を身につけていくことです。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」3:16,17



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12月21日 クリスマス礼拝

ヨハネの手紙第1 4章7〜12節
「愛は神から出ている」



「神さまがいるなら見せてください」
と言われることがあります。
目に見えない神を、この世に証していくこと。
それが私たちの使命です。



「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」4:12



「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」第1ペテロ1:8〜9



目に見えない方を信じることができるのは、魂の救いを得ているからです。
先にクリスチャンになった人々が主をあらわす光となり、その光に導かれて他の人々がキリストの元に来て、主を知るようになります。
見えないからこそ、探し、信じるのです。



私たちが互いに愛し合うなら、その中に神の愛が表される…と書かれています。
そこには、人間の内からは出てこないような交わりがあるからです。
世の中とは違う人間関係に触れて、目に見えない神を感じていくようになるのです。
なぜそのように愛せるのでしょうか?
それは、まず神が愛してくださったからです。



「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」4:9〜10
ここには、同じ内容のことが2度語られています。
・神がひとり子を遣わされたこと。
・それは私たちを罪からあがない、命を得るためだということ。
・それは神が私たちを愛しておられるからだということ。



「命」には2つの側面があります。
肉体的な命と、精神的・霊的なな命です。
「生ける屍」という言葉があるように、肉体的には生きていても霊的に迷っていて、生きる目的が分からない人もいます。
キリストは「命」を与えるために来られました。



パスカルは、
「人間の心には神にしか埋められない空間がある。」
と言いました。
夜更かしすると小腹が空いてきて無性に何か食べたくなることがありますね。
ついついラーメンなど食べてしまいます。
とてもおいしく感じて一時的に満足するのですが、翌朝後悔することもしばしばです。
胃もたれして何とも言えない不快感があるからです。
「神にしか埋められない空間」を他のもので満たそうとすること…それが罪です。



「目に見えない神」が愛を具体的に示すために、キリストを遣わされました。
「神の愛」を説くために。
私たちの罪のために。
聖い神は汚れたものに触れることができません。
罪を聖めなければ命を与えることはできません。
「神が愛なら、全員愛せばいい」と言われる方がいます。
しかし、愛は受け取らなければ意味がありません。



今どうなっているのかあまり話題になりませんが、麻生総理が「定額給付金」を支給するという話しがありました。
この給付金の一番の問題点は、どのようにして全国民に給付するか…ということです。
一方的に送りつけることはできず、本人が受け取りに来なければ渡せません。
本人が申請しなければ払えません。
いくら神さまが愛を与えようとしても受け取る意志がない人には届けることができないのです。



「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」4:11
これほどまでに…と言いますが、私たちはどれほど神の愛を自覚しているでしょう?
受けた愛によって私たちの献身が変わります。
愛は成長していきます。
他の人を愛することによって。
少ししか愛さなければ少ししか愛が分かりません。
「愛のないものには神が分からない」のです。



12月14日 聖日礼拝

マタイの福音書 1章1〜17節
「イエス・キリストの系図」



今日の箇所は最も多くの日本人が目にしている聖句だと言われています。
「ギデオン協会」という団体が多くの施設や家庭に無料で聖書を配布しています。
でもそれは新約聖書だけであり、「せっかくだから読んでみよう」と読み始めた人は、この名前の羅列で挫折してしまうというのです。
旧約を理解していなければ、この名前にはまったく意味が見いだせないでしょう。
この名前ひとつひとつは歴史の記録なのです。
イエスの誕生は偶然や思いつきで起きたことではなく、アブラハムとの約束、ダビデとの約束の実現だということを、私たちはすでに学びました。



すべての物事には歴史があります。
「今」を理解するためには過去から学ばなければなりません。
私たちが今生きている背後には、人々の脈々と受け継がれた営みがあります。



皆さんは先祖をどこまでたどることができるでしょうか?
旧家や名家と言われる家には立派な家系図があるかもしれません。
普通の家庭ではせいぜい3〜4代前の名前しか分からないことでしょう。
私の「服部家」は、茨城には珍しい名前です。
むしろ、このあたりに多い姓なんです。
聞くところによると、家康の家臣であった服部某が東京に付いてきて、第2次大戦中に戦災を避けるために茨城に移住したそうです。
そして今、私はここ名古屋に帰ってきました。



自分自身を知るにはは過去を知る必要があります。
それは同じ過ちを繰り返さないためです。
私が若い牧師にアドバイスしていることがあります。
それは、「新しいことを始めない」「古いことを否定しない」ということです。
私自身もこの教会に赴任したとき、それ以前の西教会の歩みを、歴史を学びました。
そこからこの教会の課題と必要を教えられるからです。
そして、今まで築かれてきた土台の上に新しいものを積み上げていくように心がけました。



さて、アブラハムとダビデを通して明確に語られているメッセージは、「神は約束を必ず実現されるお方だ」ということです。
たとえ絶望的に見えても、不可能に見えても。
実際、「わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(サムエル? 7:13)と約束されたダビデの王家はどうなっていたのでしょう?
ダビデの血筋であるヨセフは大工になっていたのです。
「とこしえの王座」はどこにあるのでしょう?
このあわれでみじめな状況下でキリストは生まれました。
これは神の明確な意志によります。
「自分でなんとかできる」と思っているうちは事は動きません。
本当に大切な御業は、絶望的な状況になるまで待ってから起こるのです。
それは、確かに神が働いている…と人が知るためです。
しかし、神の御業を早めることはできます。
その秘訣は、身を低くしてへりくだること、神の御業を認めることです。



「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(マタイ1:45)
これはエリサベツが、イエスの母マリアに語った言葉です。
神は約束を忘れません。
忘れるのは人間の方です。



祝福の中にありながらそれに気づかず、離れていく人も多くいます。
過ちや失敗があっても、主はそれによって祝福を奪うようなことはされません。
主は、人が過ちを犯すことなんて、百も承知だからです。
私たちには、その保証として御霊があたえられています。
失敗や挫折、困難はダメなことではないのです。
主はそれらを、祈りが深まるためにお用いになります。
失敗を恐れることはありません。



いつの日か、聞いてきたことが分かるときがきます。
経験と御言葉が一致して、主が人生に触れていてくださることを悟るときが来るのです。
「なぜこんなことが起こるのか?」と思うような出来事も、主は最善にしてくださいます。
そして、私の経験が子に受け継がれていきます。
後の人の力となり、歴史の中のページを刻むのです。



12月7日 聖日礼拝

サムエル記第2 7章1〜17節
「とこしえまでも堅く立つ」



イエスキリストの系図においてもう一人の祖であるダビデ。
アブラハムとダビデの共通点はどこにあるでしょうか。
それは「選び」です。
「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」(7:2)
王が杉材の家に住んでいる…それは戦いがなくたったことを示しています。
治安が安定しているので、王は戦場に出ることなく国内に住んでいられるのです。
予言者ナタンはダビデの言葉を最後まで聞かずに「心にあることをみな行いなさい。」と答えます。
神のために宮を建てたいという思いにはダビデの信仰の姿勢が現れています。
神に対して、ただ「欲しい」「恵んでください」というだけでなく、感謝する心を持っていたのです。
主が祝福を与えてくださったのだから、私も主のために何かしたい…という思いです。



それに対する主からのメッセージは
「わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』と、一度でも、言ったことがあろうか」(7:7)
というものでした。
これは「神殿を建てる必要なんてない。」と言っているのではありません。
今まで誰も思いつかなかったことをダビデは考えた…というのです。



どんな志であっても、主の「召し」がなければできません。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)
これは私が献身の志を与えられたときの御言葉です。
志が、自分の思いなのか、主の御心なのか、どう判断したらよいでしょう?
母はよく
「神の御心は人生の前方にはない。後方にある。」
と言っていました。
明白なのは「従っていく」ということだけです。
何をどうするのかは分からない。
一歩踏み出すと、次のドアが開かれます。
振り返ると、主が確かに導いてくださったのだということが分かるのです。
振り返ったとき、「志を与えたのは私だ」という主の宣言を聞くのです。



召してくださった主は、なすべき事を教えてくださいます。
人々を通して、困難や課題を通して。



みなさんご存じの通り、私の末の弟は障害者として生まれてきました。
妊娠中にすでに分かっており、母はショックを受けました。
我が子に障害がある、ということにではなく、医師に「どうしますか?」と尋ねられたことにです。
母は、どんな子であろうと、主に与えられた子として育てる覚悟はできていたのです。
私が中学か高校の頃、そんな母がこんなことを言いました。
「将来ひと山買って、牛や羊を飼って、障害者が楽しく安定した生活を送れる場を作りたい。」と。
今、西教会で「恵泉会」という作業所と「恵泉ファーム」という働きをしていますが、これは母によって与えられた幻だったのです。



小学生の頃、父は私を…何人もいる兄弟の中から、よりによって私を車に乗せてはキムフンナムさんという方のところへ訪問に行きました。
車で50kmほども離れたところです。
いとまごいをすると、キムさんは泣いて私たちを留め、韓国料理をごちそうしてください増した。
なぜ私だったのか?
それは西教会に来たとき、分かりました。
鄭先生と出会うための準備だったのです。



ひとつの発想を与えるために、主は訓練を与え、布石を打っておられたのです。
今の経験は将来への布石です。
今、意味が分からず、忘れてしまうことも、後になって浮かんでくるのです。



「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(7:21,13)
志はダビデに与えられましたが、実現したのは子のソロモンでした。
これは祝福であり、残念な宣言でもありました。
志を与えられても、すべて実現できるわけではないのです。
それによってダビデは次の世代のことを考えることになりました。
このために、様々な準備をしました。
託すために。
そして、主はソロモンの先にキリストを見ておられました。
バビロン捕囚から、再興へ、そしてキリストへと。
それはダビデの献身に重なるようにして実現することになるのです。



11月30日 聖日礼拝

創世記 22章9〜19節
「主は誓われた」



待降節に入りました。
救い主の誕生を待ち望む期間です。
でも、イエス様はすでに誕生されたので、もう「待降」する必要はありません。
今、私たちは再臨を待ち望んでいます。
すでに起きた「待降」を追体験することによって、「再臨を待つ」ことを学びましょう。



「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」マタイ1:1
この御言葉に私の心が留まっています。
イエスは偶然に生まれたのではありません。
アブラハム、ダビデと結んだ契約の成就が降誕なのです。
今週はそのアブラハムとの契約を見てみましょう。



ずっと学んできたように、アブラハムは75歳で故郷を旅立ち、行き先を知らずに従っていきました。
これこそが、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以です。
自分ではイメージできないゴールでも、「主が導いてくださる」と信じていたのです。
私たちは今、天の御国を目指して歩んでいますが、天国がどんなところか見た人はいません。
天国というゴールへ向かう旅路の中で、私たちはいろいろな経験をして学んでいきます。
成長するために旅をしているのです。
信仰の人へと成長するために。
そして、アブラハムの人生におけるクライマックスが、我が子イサクをささげるという今日の箇所です。



「信じる」ということは「新しく生まれ変わること」です。
赤ちゃんのように、苗木のように。
成長するためには根を張らなければなりません。
つまり、神の言葉に根ざすということです。
苗木は一年ごとに太くなります。
それが年輪を刻みます。
私たちも、一つ一つの信仰の経験を重ねて成長していきます。
そして、大きな出来事を乗り越えるのに必要な力を得ていくのです。



聖書の中に、「ブタに真珠を与えてはならない。」という言葉がありますね。
価値が分からない人に、貴重なものを与えても無駄だと言う意味です。
神からの祝福も、その価値が分かるようになってから与えられます。
祝福を受けるには、受けるにふさわしくなる必要があります。



結婚を望む若い人たちに、私はよく
「結婚したいなら自分を磨きなさい。」
と言います。
棚ぼたを待っているだけではだめです。
「すばらしい人を与えて欲しい。」
と願うなら、相手の人も同じ願いを持っていることに気づき、自分も「すばらしい人」になるよう努力しなければなりません。



大きな祝福の前には往々にして試みがあります。
逆に、試みがあるから祝福がわかるのです。
本気かどうかを試されるのです。
その祝福が本当に神からのものだと分かるように。



我が子イサクを手にかけようとしたまさにその時、主はアブラハムを止め、そこには雄羊が角をやぶにひっかけていました。
主はすでに雄羊を用意しておられたのです。
しかし、山に登らなければ、この「備え」に気づかなかったことでしょう。



「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」22:16,17



これはアブラハムが故郷を旅立つときに頂いた祝福の確認です。
そしてまた、これはキリストの予兆でもあります。
「ひとり子さえ惜しまなかった」アブラハムのゆえに、主、ご自身も「ひとり子」をお与えくださると。
また、我が子を与えることにどれほどの価値があるかを、アブラハムを通して教えておられるのです。



プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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