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12月30日 年末感謝礼拝

コロサイ人への手紙 3章12〜17節
「感謝の心をもって」



この箇所には私たちが持つべき3つの自覚が示されています。



?私たちは神に選ばれたものである
主が私たちを選び出してくださいました。
私たちを用いるために。
「神に必要とされている」ということを知るときに「使命」を自覚します。



?聖なるものとされている
「すでに聖である」のではありません。
主は
「わたしが聖であるからあなた方も聖でなければならない。」
と言われます。
弟子として、模範に習って生きることを自覚するのです。
神の愛を示すために。



?私は神に愛されている者である
困難に遭うとき、
「私は神様に愛されていないのではないか」
という思いに襲われることがないでしょうか?
これはサタンの誘惑です。
ヘブル人への手紙には
「神は愛する者をこころみ、試す」
ということが書かれています。



私は高校時代野球部に所属していました。
中学には野球部がなかったので、高校ではどうしても野球がやりたくて入部したのです。
そんな私が1年生の時、顧問の先生に呼ばれ、
「セカンドに入れ」
と言われたのです。
たまたま私が自転車をこぎながら投球練習をしているのを見かけて
「練習熱心だと判断した。」
と、先生は他の部員の前で話してくれました。
そして、私も知らなかったのですが、たまたま父が買ってくれたグローブがセカンド用だったので「セカンド」になったようです。
レギュラーになって待ち受けていたのは厳しい特訓でした。
取れそうで取れない球を何球も何球もノックされました。
そうすることによって守備範囲が広がるのです。



「選ばれる」ということは決して楽なことではありません。
でも、主は私たちを愛してくださるから全てを通して祝福してくださいます。
苦しみ以上の恵みがかならずあるのです。
 
 



 



これらのことを自覚している者は、他の人との良い関係を築いていく資質・品性を身につけます。
15節から17節の間に「感謝」という言葉が3回出てきます。
「感謝」の反対は「不平・不満・つぶやき」です。
これらは私たちの間に「違い」があるから生まれるものです。
人が集まれば集まるほど、不協和音が起こります。
それに打ち勝つのが「感謝」です。
それは献身の姿勢でもあります。



?感謝の心を持つ
感謝のない人は否定的です。
雨が降るとつぶやき、晴れれば「暑い」とぐちをいうような人です。
どんなことでも不平の種にします。
たとえ同じ事が起きても、「希望を失わない人」は喜びの種にします。
「恵まれているから感謝できる」というわけではないのです。
だれにでも苦しみや悩みはあります。
それをどう見るか、その見方が大切なのです。



?キリストのことばを豊かに住まわせる
「住まわせる」ということは「同居する」ということです。
別々に住んでいてたまに会うのなら、散らかっているものを急いで片付けて見えないところに押し込むこともできるでしょう。
「同居」ではそうはいきません。
いいところだけではなく、全てが見られています。
主は、努力も見ていて報いてくださいます。
失敗も見ていて、赦してくださいます。
「失敗したら神様に怒られる」と考えていますか?
何を今さら!
ひとり子さえお与えになったお方が、私たちの弱さも全てご存じないはずがありません。



?目標を持って、次は「よかった」と感謝できるように取り組む
10年ほど前でしょうか、今は亡きH姉がこんなことを言われました。
「西教会は女性や子どもの教会です。
ここに主人を誘うことは難しいです。」
「だからダメな教会だ」ということではありません。
そのような課題があったことは確かです。
だから、その課題に取り組むのです。
私はH姉に言いました。
「そうですね。では、ご主人を誘えるような教会になるよう、一緒に協力していきましょう。」
と。



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12月23日 クリスマス礼拝

ルカの福音書 2章8〜20節
「すばらしい喜びの知らせ」



今週の箇所は羊飼いたちを通して「信仰とは何か」を教えています。
それは、人がイエスキリストに与えられた恵みの福音を聞き、それを信じていくプロセスです。



世間では多くの人々が住民登録のために移動していました。
ところが羊飼いたちは全く「ローマのおふれ」に縛られることなく、自由に羊を飼っていました。
彼らには「帰るところ」がない…いわば住所不定だからです。
世の中の動きにかかわらず、普段通りの生活をしていた羊飼い。
そこに主の使いが現れ、良い知らせを伝えます。



主は真っ先に羊飼いに良い知らせを伝えました。
それは「この民全体のためのすばらしい喜び」だからです。
全ての人に知らせるために、最も情報が伝わりにくい人に知らせてくださったのです。



「救い主誕生」の知らせを聞いた人々は何をしたでしょうか?
パーティーですか?
彼らは「見てこよう!」と、行動に出ました。
御使いが「見てきなさい。」と命じたわけではありません。
求道心とはそういうものです。
何かを得るために努力すること、探すことに意味があります。



推理小説を読んでいる途中でタネ明かしして欲しいと思う人がいますか?
頭をひねり、予想し、裏切られながら結末にたどりつく…その過程こそが楽しいのであって「結論を急ぐこと」がよいわけではありません。
私たちが「福音」をのべ伝える時にもそれを知っていなければなりません。
信仰の手前にいる方たちが、自分で発見し、「本当にそうだ!」とわかるまで一緒に旅をすることが大切なのです。
「簡単に信じてはいけませんよ。」
これは牧師である私がいつも言う言葉です。
本当かどうかを確信できるまで手助けするのが牧師の役割だ、と信じているからです。



救い主探索に出かけた羊飼いたちも、簡単に見付けられたわけではありません。
与えられているヒントは「布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりご」です。
夜、暗い中を1軒ずつ訪ね歩き、とうとう探し当てたとき、彼らはマリアとヨセフに自分たちの体験を話し、賛美しながら帰って行きました。
ここに「自ら発見する喜び」があります。
これが大切なのです。
「見付けたい」と思う人にしか見付けられません。
「自分のものにしたい」と思わない人は決して手に入れられないのです。



「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
エレミヤ書 29章12,13節



12月16日 聖日礼拝

マタイの福音書 2章1〜12節
「異邦人を照らす啓示の光」



ご近所の方に
「教会ではイルミネーションをしないのですか?」
と尋ねられたことがあります。
クリスマスと言えば、ケーキ・プレゼント・華やかなイルミネーション…。
世の中の「クリスマス」と聖書が語る「クリスマス」には大きなギャップがあるように思います。



聖書は、キリストが誕生した時の人々の反応をコントラストも鮮やかに描いています。
ヘロデ王を始めとするエルサレムの人々はとまどいました。
貧しい羊飼い達は喜びました。
異邦人である東方の博士たちは、救い主を拝むためにはるばる旅をしてきました。



よく「東方の賢者」は3人だと解釈されていますが、聖書にはっきりそう書かれているわけではありません。
長い旅ですから、従者を連れていたことは確実でしょう。
また、王に謁見する為の着替えや贈り物も用意していたことでしょう。
おそらくは旅団を組んで旅をしてきたと思われます。



「救い主誕生」の知らせは意外なことの連続でした。



博士たちは、当然王宮でお生まれになったと考えていました。
そこでまっすぐに王宮に向かいました。
話を聞いたヘロデは驚きます。
ヘロデ王はもともとダビデ王家の血筋を引いておらず、ローマ帝国の信任のもとに王位に就いた人物でした。
それゆえに自分の地位を脅かされるのではないかとビクビクしていたのです。



救い主は、王都エルサレムではなく、地方の小さな町ベツレヘムでお生まれになっていました。
しかも家畜小屋で。



救い主誕生の知らせを聞いたのは羊飼いと東方の博士たち。
羊飼いは遊牧しながら各地を転々と歩いていきます。
歩きながらきっと良い知らせを話したに違いありません。
博士たちは帰国して、やはり故国に伝えたことでしょう。
彼らはキリストを迎え入れるための先駆け、伏線であり、下地作りをしたのです。
また、博士たちが贈った黄金・乳香・没薬は、後にヨセフたちがエジプトへ逃亡した際の資金になったのではないでしょうか。



クリスマス。
それは、もちろん神様から救い主というプレゼントを与えられた日です。
しかし博士たちから教えられるのは、「プレゼントを捧げる日」でもあるということです。



12月9日 聖日礼拝

マタイの福音書 1章18〜25節
「その名はインマヌエル」



私たちは「切迫した再臨」を信じています。
復活して天に昇られたキリストが再び来られる時・・・それはいつなのか分かりません。
突然お客さんが訪ねてきたらどうしますか?
困る人も多いのではないでしょうか。
韓国では牧師が突然信徒の家を訪問するそうです。
日常生活に信仰が生かされているかがわかるからでしょう。
「イエス様が何時来られるかわからない。」ということに恐怖心を持つのではなく、いつでも「お待ちしていました。」ともてなせるようにしていたいものです。



さて、マリアはヨセフに「神の子を宿していること」を告白しました。
ヨセフは悩みました。
マリアを愛するがゆえに、内密に去らせよう・・・と決めました。
そう決めて、思い巡らしていたときに、み使いが現れました。
「なぜ私が?」と思うときにこそ、主は近づいて語ってくださいます。
御心が明かされるのです。
そしてヨセフはマリアを受け入れることにします。
ヨセフの決断は自分に不利でも、苦しみがあっても受け入れること。
一歩踏み出すときに、恵みの世界を垣間見ることができるのです。
乗り越えていく力は、祈りです。



私たちにとって「運命」という言葉は不適切です。
私たちはそれを「摂理」と呼びます。
不必要な経験はありません。
あらゆることを通して大きな恵みへと導かれます。
すべてのことに意味があるのです。



最も感謝すべきことは、イエス様が神のあり方を捨てて私たちとともに住んでくださったことです。
そして私たちを内側から作り変えてくださることです。



12月2日 聖日礼拝

エレミヤ書 31章 31〜34節
「新しい契約の預言」



ここは聖書の中でも最も大切な箇所の一つです。
キリストが来られたわけが書かれているからです。
「新約」とは新しい契約という意味です。
なぜ新しい契約を結ぶことになったのか、書かれているのです。



キリストの誕生は私たちにとって喜びですが、キリストをこの世に下された父なる主の思いを推し量ることも必要です。
岩淵まことさんの賛美に「父の涙」という歌があります。
「十字架から あふれ流れる泉 それは 父の涙」
と歌われる、父の気持ち。
また、子なるキリストは、神であられるのにそのあり方を捨てることができないとは考えないで、この世に下ってくださいました。
私たちもその模範に従おうではありませんか。
「他人から仕えられたい。認められたい。」
という思いは、生まれながらにして私たちが持っている心です。
しかし、どれほど愛されているかを知り、他者の救いのために涙する時に、父の思いを知るのです。



「旧約」はすなわち十戒です。
イスラエルの民がエジプトから脱出したときに、神はイスラエル人を特別な民として選び、その契約の印として十の戒めをくださいました。
しかし、民は感謝を忘れて不満に支配されるようになります。
そして、不信仰の故に神は祝福を与えることができなかったのです。
結果的に民は40年間荒野をさまよい、エジプト脱出時に成人だった人々の中で、ヨシュアとガレブ以外に約束の地を見ることはできませんでした。



人間の熱意は冷めます。
主は「人間の熱意」によらない新しい契約を結ぼうと決意されました。
人の内側を作り替える計画です。
これはキリスト昇天ののちに与えられる聖霊の予告でもあります。



「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。
私は彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、
『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低いものから高いものまで、わたしを知るからだ。」



現実に目を向けるとき、「心を変えられやすい人」と「変えられにくい人」がいることに気づきます。
その違いは何でしょうか?
それは「救いの恵みをどれほど知っているか」ということです。
自分のようなものが救いにあずかれるという恵みを知ったなら、自ら変わるはずです。
どれほど祈られ、労苦されているかを知らないから変われないのです。
「感謝の心を持つ人になりなさい。」コロサイ3:16
と言われていますが、感謝の思いがどれほど自覚されているかによって、主のために捧げる献身の思いが違ってきます。
神が命がけで、尊い犠牲を払ってくださったということを伝えることへの思いが。
そして、「どのように主にお仕えしたらよいだろうか」という思いに導かれるまでには忍耐と愛が必要です。
また、主のために何かしたいという思いが与えられたとき、「何か」を与えられるのを待つのではなく、共に祈り合い考えることから始めようではありませんか。



プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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