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12月31日 聖日礼拝(年末感謝礼拝)

出エジプト記 20章1〜6節
「千代の祝福の基となる教会」



名古屋西福音自由教会の目標としていることばの一つが
「千代の祝福の基となる教会」
です。



イスラエルの民はヨセフの時代にエジプトに移住しました。
ヨセフは当時のエジプトで大臣を務めるほど重用されていました。
しかし、その後ヨセフを知らない王が立つと、イスラエル人は虐げられ、奴隷にされてしまいます。
そこからイスラエル人を連れ出したのがモーセです。
そして、体だけではなく人格的にも自由とするために、神様はモーセを通して「十戒」を与えられました。
奴隷的な考え方を脱して、自由人としてのありかたを教えるために。



私たちはクリスチャンになることでゴールに達したわけではありません。
義認→聖化→栄化
と進む途上(on the way)にあるのです。
途中には戦いがあります。
その戦いは「ことば」の戦いです。
「神の言葉」に従うか、「この世の言葉」に従うか。



私たちは聖書をもっとも大切なものとして、信仰と生活の土台としています。
時として陥りそうになる罠は、
「聖書にはそう書いてあるけど…
ということばです。
この罪の誘惑とどう闘ったらいいのでしょう。
「この世の常識ではそうかもしれないけど…」
「過去の経験からはそうだけど…」
ここから出発しましょう。
「けど…聖書に従います!」と。



愛されたことがない人は、人を愛することができません。
愛されていることがわかったときに、愛することができるようになり、愛することは重荷ではなく喜びになります。
同じように、神様の愛を理解すればするほど「仕える」ことができるようになるのです。
「ねばならない」が先行してはいけません。
「愛への応答」として「仕える」のです。



形から入ってはいけません。
「クリスチャンだから」
「牧師にいわれたから」
「人に見られているから」
ここから出発するとつまずきます。
愛してくださる主に喜んで捧げていくことが大切なのです。



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12月24日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 3章16〜21節
「ひとり子をお与えになったほどに」



誰かにプレゼントを贈る時、どれくらいの物にしようかと考えますね。
義理のおつきあいならほどほどに。
大切な人なら高価な物でも惜しくありません。



神様が「世=わたしたち」に贈ってくださったプレゼントは「ひとり子」でした。
的はずれな生き方をしている人間が、本来持っている「命」を取り戻せるように。
そして、神様との交わりを回復するために。
わたしたちには「ひとり子」を与えるだけの価値があると、神様は思っておられるのです。



わたしたちが「愛されている」と感じるのはどんなときでしょうか?
何かがとても上手にできて、誉められた時でしょうか?
いえ。
実は誉められたときには、むしろ恐怖感を感じるものなのです。
「もし失敗したら、この愛を失うのではないか?」と。



「愛されている」と感じるのはこんな時です。
失敗しているとき。
自分でさえ自分を受け入れられないのに、こんな私を理解してくれる…と感じるとき。
つまずいて、がんばれない時でも、そのまま受け入れてもらえるとき。
「愛されている」と感じて、やり直せるのです。



キリストは、命をかけてわたしたちの罪の代償を払ってくださいました。
何度でも罪に負けてしまう弱いわたしたちを、ありのまま受け入れてくださいました。



「ありのまま受け入れられた」からといって、「ずっとそのまま変わらなくて良い」ということではありません。
愛され、教えられて子どもが育っていくように、御言葉を受け取り、信仰の友との交わりによって育まれる必要があるのです。



12月17日 聖日礼拝

ルカの福音書 2章 1〜20節
「彼らのいる場所がなかった」



この箇所で一番有名な聖句は11節
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」
でしょう。
しかし今日は7節に目を留めていきましょう。
「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」



1,2節から時代背景が読みとれます。
当時イスラエルはローマ帝国に統治されていました。
そして、皇帝は「住民登録をせよ」と勅令をだします。
これは税金徴収のため、また、徴兵のための戸籍作成をするためです。



身重のマリアと夫ヨセフはこの命令にあわてたことでしょう。
ナザレからベツレヘムまで120Km以上の長旅です。
「聖霊によって授かった子を産もうというときに、なぜこんな辛い旅をしなくてはいけないのだろう?」
しかも、ベツレヘムに着いてみれば、宿には泊まるところもありません。
ようやく見つかった家畜小屋で、とうとうマリアは出産します。
赤ちゃんのベッドは飼い葉桶。
「救い主」として約束されている子が、こんなところで生まれるなんて?



さて、そのころ野宿をしていた羊飼い達がいました。
彼らは遊牧民。
「帰る家」を持たず定住することのない人々。
ローマ帝国の中には居場所がない、帝国の支配からも漏れた忘れられた民です。
そんな羊飼い達に御使いが訪ました。
「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」
「ローマ人」には入れてもらえない最も小さい民は、神の民にはちゃんと入れられていました。
そして、最も小さい民にこそ、まず喜びが伝えられたのです。
また、羊とともに移動していくこの民は、救い主が誕生したという知らせを各地に伝えて行く最初の伝道者となるのです。



彼らが行けと命じられた場所は、なんと家畜小屋。
羊飼い達が気兼ねなく訪ねていける場所でした。
「飼い葉桶に寝かされている赤ちゃん」なんて、そうそういるものではありません。
とても具体的なわかりやすい目印です。
1軒1軒、彼らは探しました。
家畜小屋をのぞき、赤ちゃんがいないか調べ、また次の小屋へと。



羊飼い達がどやどやと中に入ってきたとき、マリアとヨセフは驚いたことでしょう。
でも、この時ふたりが抱いていたいくつもの「なぜ?」が解きほぐされていきます。
なぜベツレヘムに来なければならなかったのか。
なぜ家畜小屋でなければならなかったのか。
そして、全てが神様の計画の中にあったことを知るのです。



12月10日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章24〜38節
「お言葉どおりにこの身になりますように」



マリアの親戚にあたるザカリアとエリサベツについて5節から述べられています。



6節「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度なく踏み行っていた。」
7節「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」



イスラエル人にとって、この6節と7節の間にはとても大きな矛盾があったのです。
どんなに繁栄している人であっても、その財産を受け継ぐべき「子がない」ということは「神の祝福を受けていない」という意味を持っていたからです。
きっとザカリアとエリサベツも
「ちゃんと神様の教えを守っているのに、なぜ?」
と、つらい思いをしながら年を重ねてきたに違いありません。



ある牧師が、
「クリスチャンを相撲にたとえるなら、八勝七敗の人生だ。」
とたとえられた言葉を忘れることができません。
クリスチャンだからといって、人生すべてバラ色、悩みもなく順調に過ぎていく…ということはまずありません。
最終的に勝ち越すとしても、全勝することはまずめったにありません。
困難に直面し、苦しみ、倒れることも多いのです。



聖書に登場する立派な人物も決して例外ではありません。
一例をあげるなら、十字架に向かわれる前にイエスはペテロに
「わたしは、あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい。」
と語られました。
「立ち直ったら」ということは、その前に「倒れる」ということを暗示しています。
事実このあと、ペテロは三度「イエスとは無関係だ」と言い張ってしまうのです。
しかしここで注目すべき所は
「立ち直ったら兄弟達を力づけてやりなさい。」
という言葉です。
人間は完璧でなくてもよい。
失敗しながらも立ち上がって、神様に用いられていくのです。



ザカリアとエリサベツは苦しみの末、とうとう子どもを授かります。
何のためにこんなに待たされたのか?
それはマリアを励ますためでした。
不妊の女に子を与えられた神様は、乙女マリアをも身ごもらせるということを教えるために。
マリアがこの大きな使命を受け入れることができるように。
困難には必ず意味がある。
その経験を通して人を励まし、支えていくという意味がある。



マリアは、決して何も悩まずにすんなりと
「お言葉どおりにこの身になりますように。」
と言えたわけではないでしょう。
マリアは、ザカリアとエリサベツ、またヨセフに支えられて「イエスの母」という役割を担っていくのです。



12月3日 聖日礼拝

マタイの福音書 1章18〜25節
「主が言われた約束の成就」



教会歴では「待誕節」に入りました。
キリストの誕生を待ち望む1ヶ月です。
しかし、実は、わたしたちはもうキリストの誕生を待ち望む必要はありません。
すでにそれは実現したからです。
今わたしたちが待ち望んでいる、まだ成就していない約束は「再臨」です。
復活されたキリストが再びこの地上に戻ってこられ、救いが完成する時を待っているのです。



さて、今日の箇所は系図が書かれています。
名前の羅列は、つい読み飛ばしてしまうところですね。
詳しく調べていくとそれぞれ旧約聖書に記述があるのですが、この系図の中で特に目を留めてほしいところは3カ所です。



?イスラエル民族の始祖、アブラハム
 創世記 22章15〜18節
 神様から「子孫を海辺の砂のように増やす」という約束を受けながら、なかなか子どもを授からなかったアブラハム。
 やっと与えられたイサクを、神様は生け贄として捧げるように命じます。
 苦悩の末、イサクに刃を振り下ろそうとしたそのとき、神様はアブラハムを止められます。
 そして、ひとり子さえ惜しまなかったアブラハムの信仰を認められました。
 ここに、神様自らが「ひとり子を惜しまずに罪人のために与える」という約束が示されているのです。



?イスラエル史上最も偉大な王、ダビデ
 第2サムエル記 7章12〜13節
 ここで、ダビデの子孫に「とこしえの王座」が約束されています。
 ここに預言されているのはキリストのことです。



?救い主、イエス
 イザヤ書 7章14節
 マタイ1:23に書かれている御言葉はこのイザヤ書からの引用です。



この系図は14代ごとに区切られています。
しかし、中には省略され、とばされている代もあります。
ではなぜ「14」なのか?
ユダヤ教のカバラによればダビデ(DWD)は4+6+4=14となります。
実は「14」という数字はダビデの子孫であるキリストを想起しながら暗誦し、口伝していくための工夫だったのです。



それはともかく、系図を掲げることによって福音記者が言いたかったことは、
「キリストの誕生は偶然ではなく、預言の成就であった。」
とうことです。



私たちが生きていくときにいろんな人に出会い、いろんな出来事を経験します。
何も気に留めないこともあれば、時には「なぜ?」と考え込むようなこともあります。
ところが、何年もたって
「ああ、あのときの経験はこの時のためだったのだ。」
とはたと気づく。
失敗であれ、苦しみであれ、意味のないことはないのです。



プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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