4月8日 聖日礼拝

マタイの福音書 22章34~40節、28章16~20節
「主イエスのように神と人を愛するものとして成長しましょう」
             東海聖書神学塾 後藤喜良師

先週の金曜日に入塾式がありました。
7人の方が入塾されました。
ここで学んだ方の感想は無味乾燥ではありません。
「今まで教会生活をして、いろんな話を聞いてきましたが、学んでやっと全部がつながりました」
「すっきりしました」
と言われます。
聖書が何を教えているか、どう生きるべきかが分かったと言われると嬉しく思います。
「そうだったんだ」
「こう生きていけばよいのか」
とすっきりクリアになると。

私たちは何のために生きているのか。
毎日、家庭、仕事、いろんなことがあります。
「一番大切なのは何か」を忘れて、なんとなく生きてしまいます。
結論を言ってしまうと
「私たちは、愛に満ちあふれていらっしゃる神の栄光を表すために、神と人を愛して生きる!」
このことだけ覚えていけばよいのです。

個人としては、
「飲むにも食べるにも神の栄光を表すためにする」
仕事、家庭、教会、全ての場で。
ラテン語で言えばSoli Deo Gloria「ただ神の栄光のために」。

では、どうすれば栄光を現せるのでしょうか。
私たちが神と人を愛することによってです。
主は、「できなかった」私たちを「できる者」にしてくださいます。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
コリントⅠ15:9,10

「神は全能」と言います。
私たちと同じ人であられたイエスの内に、聖霊が働いて、完全な愛を実現されました。
それが「全能の力」であり、それは愛の力です。
神は、全世界を完成させることができる力を持っておられます。
神は、この私を作り替えて、聖霊に満たして、隣人を愛せるようにもしてくださいます。
神を褒め称え、栄光を表すために。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
ローマ5:6~8

イエスは、私たちのために全てを捨てて下さいました。
これほどの愛は他にはありません。
私のような罪深い者を作り替えて、自分を犠牲にする生き方ができるようにしてくださいました。

「愛するにはどうしたらいいでしょうか」と主に聞いて、それを行っているだけです。
私は神の愛を知りました。
味わいました。
そのように愛そうとしますが、なかなかうまくいきません。
それでも、神はそうしてくださると信じて、少しずつそういう歩みをしていくのです。
神が聖霊によって、私たちをイエスのように変えてくださっています。
一緒に神を褒め称えましょう。

神と人を愛するためにして欲しいのです。
自己中心をくいあらためて。
少しずつ、良い実を結ぶことで神の栄光を表すことができます。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:5

どれだけ実を結べるか。
その実によって父が栄光をお受けになります。
個人と家庭、仕事、全てにおいて神の愛を表すために。
政治もそうです。
隣人を愛するために、政治は行われるべきだと思います。
恵みを公平に分かち合うことができるようにするのが政治です。
今の不公平な分配は間違っていると思います。
私たちは税金を納めます。
それが隣人を愛するために用いられているでしょうか?
ぜひクリスチャンの中から政治を志す人が出て欲しいです。

さて、なぜここでマタイ28章16~28節なのでしょうか?
教会の働きは大きく4つあると言います。
礼拝、伝道、教育、交わりです。
神の栄光を表すために行われていることです。
教会の働きは神と人を愛するために行うものです。
そのことが忘れられていないでしょうか。

①伝道

「大宣教命令」と「愛の戒め」には何の関係があるのでしょうか。
私が40代の頃は別のことだと思っていました。
その頃シンガポールで集まりがあり、スコット先生に会うために参加しました。
私は先生にこのことを質問しました。
「全ての戒めは愛の戒めに含まれなければならない」
と、先生は答えました。
「教会成長を目的とするのは間違っている」とも言われました。
当時教会では「弟子訓練」云々が盛んでしたが、先生は否定的でした。
私はすっきりしました。

それ以来、私は聖書の始めに

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」コリントⅠ15:1

からの御言葉を書いています。

②礼拝

礼拝は神との交わりです。
何のために毎週集まって、二千年前に書かれた本を読んでいるのでしょう。
神は愛の言葉を話してくださいます。
愛されていることを礼拝で確認するのです。
そして、聖餐式。
初代教会は毎週聖餐式をしていました。
礼拝こそが愛の確認です。
私たちは神の愛で愛し合おうという思いを与えられて、帰っていくのです。
礼拝は交わりの時です。
自分は神に愛されている幸せな者だと知って欲しいと思います。
聖霊が与えられているから、成長できると確信して、神と人を愛して生きていきましょう。
教会は、信者を増やすために伝道するのではありません。
皆に永遠に幸せになってもらいたいという思いで愛を表して欲しいのです。

③教育

クリスチャンは、信者でない人よりも他人を裁きやすい面があります。
イエスは山上の説教で「裁きあってはいけない」と言われました。(マタイ7:1)
子どもにも愛をもって、忍耐強くしなければなりません。
「正しいことをする」信者ではなく「人を愛する人」になって欲しいと思います。

④交わり

交わりは分かち合うと言う意味です。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5:16

良い行いをすること。
福祉の働きも教会の大切な働きなのです。
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入学式♪

思い返せば「入学式」って何度書いたことだろうか。
ふーみんの、小中高大
りーちゃんの、小中高大
そして、もっくんの小中高、まできました!

2018-04-06 083526


4月6日が入学式。
自家用車乗り入れ禁止なので、駅から歩くこと20分少々。
慣れないパンプスで疲れました(^^;

式はいたってシンプル。
校歌紹介が、アカペラの合唱だったのが印象的でした♪

同じ中学からここに進学した人は他におらず。
塾仲間は数人いて、せめてその誰かと同じクラスになれないかとかすかな希望を持っていたのですが、撃沈。
初日の友だち作りははかなく消えたようです。
でも、振り返ればふーみんだって、りーちゃんだって、クラスにひとりも友だちがいない状態でスタートしていますからね。
きっと気の合う仲間が見つかるはず!
明日の始業式、うまく過ごせますように!

4月1日 イースター礼拝

エペソ人への手紙 4章25~32節
「新しい人を身につけて」
            大治福音自由教会 服部真光師

クリスチャン生活にはふたつのステップがあります。

①信じてクリスチャンになる
②クリスチャンとして生きる


今日はエスカレーションサンデーでした。
この時期、多くの方が新しい場所に出かけていきます。
中身はすぐには変わりません。
立場が変わります。
身分が変わる、と言ってもいいでしょう。
クリスチャンになるのも同じです。
同じ「私」ですが、立場が「神の子」に変わります。
すると、生き方が変わります。

今日読んだ箇所は25節から32節ですが、その前後が大事です。
エペソ人への手紙は、パウロが、クリスチャンになった聖徒たちに向けて書いたものです。
エペソの教会は、パウロが立ち上げました。
不特定多数ではなく、救われたクリスチャンに語られているということは大事です。
なぜでしょうか?
立場を自覚することが大事だからです。

立場が変わると呼び名が変わります。
小学生が中学生に、中学生が高校生になると、それにふさわしい技術、知識、経験を身にることが求められます。
たとえまだ何も学んでいなくてもです。
新しい環境の中で、それにふさわしものを身につけて、ふさわしい人物になることが求められるのです。
主は、それまでのことは全て置いておいて、クリスチャンとしてふさわしい経験を身につけるようにと、一新してくださいました。

「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」4:24

古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る。
入学すると、学校にふさわしい制服を着ます。
意識が変わります。
信じて、クリスチャンになると、どういうことを身につけることが期待されるのでしょうか。

ここに5つの対比が書かれています。

①偽りを捨てて真実を語る

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」4:25

偽る、と言うことの中には、自分を偽ることも含まれています。
ありのままの自分を語りましょう。
謙遜を装うのも間違っています。
「嘘を言わない」のではなく、「真実を言う」のです。
裏表をなくしましょう。
真実を語らないと誤解されます。
一部分だけを伝えるのも「真実」とは言えません。

②怒りを野放しにしない

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
4:26、27

35歳の青年が相談してきました。
「どうしても許せない人がいる」というのです。
その相手は、中学生の頃にいじめてきた人でした。
その人に対していつも怒りを持って来たと言います。
20年もの間、その怒りに囚われてきたのです。
「怒る」ことを否定するつもりはありません。
でも、怒りを野放しにすると罪に陥る恐れがあります。

③盗んではいけない

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」4:28

「盗みなんてしていない」と言われるかも知れません。
人に労苦を背負わせて、自分が楽をすることがいけない、と書かれています。
自ら骨折って、人を助ける生き方をする必要があります。

④悪い言葉を使わない

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
4:29、30

私たちが毎日話している言葉を、すべて口述筆記されて文書化されたらどうでしょう?
不平、不満、つぶやきが多いのではないでしょうか。
無意識に人への批判をしているかもしれません。
よくないことにはよく目が留まるものです。
そして、それをぼやきます。
子どもの頃、兄に「いびきがうるさい」と言われ、カセットテープに録音までされて責められました。
実は兄もいびきをかいていたのですが。
自分のことはわからないのです。
どんな影響を人に与えているか、考えることが必要です。
そこが大人と子どもの違いでもあります。
子どもはやりたいことをやり、言いたいことを言います。
大人はすべきことをして、言うべきことを言います。
悪い言葉とは、「人の徳を養うのに役立たない」言葉です。
意識に新しい人を着るトレーニングが必要です。
語るべき言葉を選ばなくてはいけません。

⑤ゆるしあう

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
4:31,32

怒りや悪意ではなく、赦し合うことを求めましょう。
そのためには、違いを認めることです。
意識して、変革する必要があります。
一度には無理です。

そして、こう続きます。

「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」5:1

ですから、神に習うものになる、クリスチャンになるのです。
そのために、キリストはあがないの十字架により私たちを神の子にしてくださったのですから。

3月25日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 1章3~12節
「信仰による救い」
              柳橋宏祐神学生

友人や家族と会っても、渇きがありました。
テレビを見ても満たされない。
欲しい、なりたい、という渇きが生まれてきます。
テレビを切って、寝ました。
心の中では、この渇きを満たすものは神さまだけだと知っているのに立ち返ることのできない罪の姿を認めざるをえません。
霊的な喜びがなく、渇くとき、神を求めているだろうか。
他のものを求めて、なお渇いているだろうか?

この手紙は、小アジアの教会に向けてペテロが書いた手紙です。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。」1:6

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」1:8

なぜこんな喜びが、彼らにはあったのでしょうか。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」1:3

主イエスキリストの父が褒め称えられるように、とペテロは書いています。
ペテロは、イエスは主であると告白しています。
主、大祭司、預言者として選び、油注がれたもの、それがキリストです。
その方が「神の子」であると宣言しています。
ペテロはそう信じ、従っていました。
主が自分を新しく生まれさせてくださった、と。

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」ヨハネ3:3

私たちは御霊によって、新しい命を吹き込まれています。
だから生ける望みを持てるようになりました。

「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」1:4

朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産。
資産とは、もともと「相続地」「割り当て値」「約束の地」という意味です。
エジプトから約束の地カナンへ導かれたユダヤ人は、バビロンによって滅ぼされました。
その後、解放されてエルサレムへ帰還します。
しかしそこは廃墟となっていました。
宮の再建が成されましたが、ソロモンの栄光とは比べられませんでした。
それも、いつ朽ちるか分かりません。
ユダヤ人は、はかなさ、空しさ、失われる不安を経験し、感じていました。
神が与える資産は、それとは全く違っていました。
この世ではなく、天に蓄えられる資産だからです。
新しく生まれさせ、御霊を与え、イエスがよみがえり天に昇り栄光にあずかったように、私たちも受け継ぐと約束されています。
それは生ける望みで、決してなくなりません。
受け継ぐ日まで、御力によって守ってくださいます。

「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」1:5

私対はその約束を信じるだけです。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」1:6

その約束が大いなる喜びをもたらしました。
試練を耐え忍び、大いなる喜びに生きることができるようになりました。
今しばらくは試練の中で悲しまなければならない。
悲しむことは不信仰ではありません。
信仰が試されているのです。

「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」1:7

試練の中でも喜ぶことができる理由は、それが称賛と光栄と栄誉をもたらすからです。
それをイエスが共に喜んでくださいます。
金は、最も高価なものとされています。
信仰は、それよりも高価だとペテロは言います。
金でさえ朽ちるが、信仰は朽ちることがありません。

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」Ⅰヨハネ5:4

冠が与えられる日を待ち望み、互いに励まし合いましょう。
信仰を持ち続けられるように。
最後にはイエスが現れて、誉れを与えて下さると信じ続けましょう。
そのような信仰と望みが、大いなる喜びを与えて下さるのです。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、{あなたがたの}たましいの救いを得ているからです。」
1:8,9

見たことがなくても信じている。
ペテロはイエスを実際に見ていました。
が、小アジアの教会の人々は見たことがありませんでした。
それでも同じようにイエスを愛し、信じていました。
それは魂の救いを得ているからです。

ルカの福音書7章36~50節に、人々から「罪深い」と言われていた女がイエスの足を自分の髪で洗い、香油を塗った話が書かれています。
その時、イエスは「この女は私を多く愛している。それは多く赦されたからだ」と言っています。

「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」ルカ7:50

魂の救いは信仰によって与えられます。
罪の赦しを信じるとき、イエスを愛し、信頼を置くものへと帰られます。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
1:10~12

この救いは預言されていたものでした。
キリストの苦難と栄光が救いをもたらしました。
苦難とは、私たちの罪を赦すために罰せられたことです。
私たちもイエスの僕とされています。
失望させられることはありません。
イエスは慈しみ深く、全ての罪を赦して、主として導いてくださいます。
女は見捨てられていました。
どん底にいました。
でもイエスは全てを赦して、受け入れ、喜んで受け止めて下さいました。
どんな罪を持っていても、周りの人が見捨てても、イエスは見捨てません。
信頼を受け止めてくださいます。

そこには2つの喜びがあります。


新しく生まれさせ、望みを与えて、御国を受け継ぐ約束故の喜び。
将来への希望。

今、見てはいなけれどイエスを愛し、信頼できるという喜び。

私たちにもそれが与えられています。
両方とも目に見えないものから与えられています。
霊的な喜びは目に見えないものだからです。
私たちは、信仰によってこの世を生きる旅人であり、寄留者なのです。

3月18日 聖日礼拝

使徒の働き 3章1~10節
「目先の解決でないことを」
           hi-b.a.スタッフ 丸山告師

前に奉仕していた教会ではホームレス伝道をしていました。
場所は河川敷です。
荒川、利根川が有名です。
「金八先生」のオープニングで生徒が歩いていたところです。
小学5年生から高3まで私が育った地元です。
実際には朝あの川沿いを通学している人はいませんが。
ジョギングしている人はいます。
斜面でサラリーマンが物思いにふけっていることもあります。
橋の下はホームレスがたくさん住んでいます。
週に一度、炊き出しを行っていました。
平日なので、私が行ったのは1,2回ですが、何百人ものホームレスの人が集まりました。
聖書朗読と、牧師の短いメッセージの後で食べ物が配られます。
私は何人かと話をしました。
高校生の頃です。
テレビや新聞の話ではなく、実際に向かい合うといろいろなことに気付きます。
感じたのは、
「この人は普通の、自分と同じような生活をしていたのだ。
 どこかでくなってしまった。
 こうならざるを得ない事情があったのだ。」
ということです。
私たちは、表面上に見えることで判断しがちです。
背後にあるストーリーには目を向けないのです。
今日の聖書の箇所では、そのような人の問題が解決されたことが描かれています。
結論を一言で言うなら、
「イエス・キリストを知ることが根本解決である」
です。

ここまでの流れを振り返りましょう。
イエスの昇天後、弟子たちは祈り続けました。
イスカリオテユダの代わりに弟子が補充されるように示されました。
マッテヤが選ばれました。
ペンテコステで聖霊が下りました。
ペテロが初めての説教をしました。
3,000人の人々がバプテスマを受けました。
全ての人々から好意を持たれました。
急激なライフスタイルの変化を見て、「怪しい」と思われても仕方がないはずなのに。
彼らは、外に発信する交わりがあったからです。
新しい人を歓迎する文化が形成されていました。

ペテロとヨハネの働きは、イエスのように、個人にしっかり向き合っています。
ザアカイ、サマリヤの女の場合を思い出してください。
ユダヤ人は一日に3回特別な祈りの時間がありました。
午前6時(第1時)、9時(第3時)、正午(第6時)、午後3時(第9時)。
どこで祈っても良いのですが、神殿の庭で祈りを捧げることに価値を置いていました。
神殿に、生まれつき足の不自由な人が運ばれてきました。
出生児のケガか、何が原因かは不明です。
彼は「美しの門」にいました。

私は高校生の頃、疑問を持っていました。
「この人は足が動かなくて惨めな思いをすると分かっていて、なぜここにいたんだろうか」
と。
発想が逆でした。
足が動かないと言うことは、仕事ができないと言うことです。
つまり生活することが苦しいから、施してもらわないと生きていけないのです。
だから、人通りの多い所にいないと意味がありません。
ホームレスも人の多いところに集まります。
チャンスがあるからです。
人が多いところは、廃棄食物も多いのです。
信仰心を持った人はターゲットになり得ます。
この足の不自由な人は、家族か知人か友人にかつがれてきました。
定期的にでしょう。

「彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。」3:3

この言葉は「しきりに施しを受けることを求めた」という意味です。
1度や2度ではありません。
生活がかかっているのですから。

「ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。」
3:4,5

「目を注いだ」という表現は、新約聖書の中ではまれにしか見られないものです。
「心を向ける。何かをつかもうとする」という強い期待を表しています。
通りすがりの人々は、チラッとみるだけのことが多いでしょう。
あまり関わらない方がいい…とやりすごすのが一般的ではないでしょうか。
ペテロとヨハネは、凝視するような視線を送っていたはずです。

神学生の頃、毎週千葉の柏で路傍伝道に出かけました。
多くの人が行き交うのですが、素通りしてきます。
見方によっては
「こんなことをして意味があるのか?
 あまり効果的ではないかも知れない」
とも感じられます。
それでも、立ち止まる方が何人かはいました。
少なくとも2,3人が足を止めてこちらを見ています。
勇気を持って話しかけます。
するとだいたい同じ返事が返ってきました。
「歌っている曲が讃美歌だとわかりました」
「以前教会に行っていました」
「わからなかったけど、楽しそうだったから」
「意味が分からない」
場合によってはその場でイエス様を受け入れることもありました。

この男性にしてみれば、自分は施しを求めていて、立ち止まった人がいて、その人が「見なさい」と言ってきた。
期待できるシチュエーションです。

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って、」3:6

「金銀は私にはない」!
先日の水谷先生はご自分のスタイルを「吉本系」と言っていました。
初めてメッセージを聞きましたが、本当に吉本系と分かりました。
このシチュエーションそのものが吉本ではないでしょうか?
劇的なズッコケシーンです。
男性はちょっとガクッとなったのではないかと思います。
「見なさい」と言っておいて、「金銀はない」!
その後が大事です。

「彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。」
3:7,8

男性はこの場で立ち上がりました。
身体的な回復と、霊的な回復が与えられたのです。
解決ポイントをあげていきましょう。

①イエスキリストの名

彼はイエスの名を聞いたときに癒されました。
この名の響きに。
呪文ではありません。
全ての人がこの名で救われるわけではありません。
だれでも学校で、イエスキリストについて習うでしょう。
音声として聞いただけで救われるのなら、だれもが中学生でクリスチャンになることでしょう。
この男性は、イエスを「名」ではなく「人格的に」知りました。
イエスが自分にとってどんな存在かがはっきり分かり、味わいました。

②根本的な解決を選んだ

別の視点から読んでみましょう。
「金銀はない」。
もし金銀を持っていたらどうなっていたのでしょうか。
この言葉はペテロが言っています。
ヨハネもその場にいましたが、何も言っていません。
ヨハネはペテロよりは裕福だったはずです。

マルコの1章によると、ヨハネは船を所有し、人を雇っていました。
ペテロが大祭司の庭に入れてのも、ヨハネのコネのおかげです。
それほどの家柄でした。ヨハネはお金があったかも知れません。
施すことはできたはずです。
クリスチャンとして、施しは間違った行為ではありません。
でも、彼はそれをしませんでした。
その場限りの問題解決は、究極的解決にはならないと知っていたからです。
お金を施せば喜ばれたかも知れません。
その日一日は過ごせたかも知れません。
本人が願っていたのはお金やものでした。
それよりも必要なことは自分で働き、生きていくことでした。
歩けるようになることのほうが優先順位が高かった。
本当の意味で生きていくには、イエスキリストの名が必要でした。
私たちは目先の問題に気を取られがちです。
今かかえている患いを解決したいと願います。
今日の必要が満たされたい。
人に対してもそう考えます。

自分が生きているのは十字架に夜のだと知ることが根本です。
生まれてこの方、この男性は歩いたことがありませんでした。
人の助けがないと移動もできません。
おそらく40歳ぐらいの男性は、求めない、諦めるしかない境地でした。
私たちが人を見るときにも、そのような視点が必要です。
ある高校生は「生きていてもしかたがない」「命を絶とうとしたことがある」と言っていましたが、そこに到るプロセスがあるはずです。
交友関係、家庭、などなど。
しかし、解決はひとつしかありません。
主イエスがどれだけ愛してくださっていて、十字架の犠牲が必要だと伝えるしかないのです。
「進化論の方が納得がいく」という高校生もいます。
「なぜそう思うの?それが解決したらどうなるの?」と問います。
自分も紙に取り扱って頂かなければなりません。
土台にある自分の根を探って頂くのです。
私にとってイエスの名とは?
そこに思いを巡らす必要があります。
今の私にとってイエスはどのような方なのか。

「人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」
3:9,10

「目先の解決があったとしても、究極的解決にはなりません。
 それを与えるのはイエスの名だけです。」
という告白が必要かもしれません。
これは、ここで終わらないストーリーです。
4章まで進んでいきます。
この男性はサドカイ人に捕らえられます。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」4:12

ペテロとヨハネにはこの確信があったから言えたのです。

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」
4:13,14

言葉で説明できない世界がそこにありました。
イエスに触れられて、変わることがそれです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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