6月3日 聖日礼拝

列王記第2 5章 1~14節
「私たちの期待と神のご計画」
         大治福音自由教会 服部真光師

アラムの王の将軍ナアマンが神を信じる者になったというできごとを通して、信仰とは何か、神を信じるとはどのように生きることかを学びたいと思います。
3回くらいで学んでいきます。

聖書を読む時に地理的な関係を知ることは大切です。
ダビデ・ソロモンの後、イスラエルは分裂し、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれていました。
エルサレムは南王国にあります。
そして、北王国のさらに北にはアラムがありました。
アラムの将軍は、病を治すために、国境をまたいで北王国の王の元に行くことになりました。
国境ではしばしばいざこざが起きます。
特に収穫期などには。

「アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。」5:1

5章の前半では、アラムの王の将軍ナアマンと、北イスラエルに住む預言者エリシャの二人にスポットを当てています。
登場人物であるナアマンはどんな人だったのでしょうか。
まず、主君に重んじられていました。
王の信頼篤い将軍でした。
人々から尊敬されていました。
人望があったのです。
しかも、神に用いられた人物でもありました。
「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられた」とあります。
アラムは異教の神を信じる民なのに、意外です。
主は、ご自身を信じる者だけを用いられるわけではありません。
クリスチャンでない人も祝福されます。
全ての民はご自身の民であり、主は全ての人の上に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。
主は、全ての民が立ち返って神を信じる者になることを願っておられるのです。
「主が」勝利を与えられました。
北王国と戦って。
神は全ての者をお用いになって、「神は生きておられる」ことを示されます。

この人は勇士でした。
国難にもくじけずに前を見て取り組んでいける人でした。
だから、王に重んじられ、人々から信頼されていました。
しかし、ツァラアトに冒されていました。
今日ではその病名が不明なので、原語の発音をそのままカタカナ表記していますが、「重い皮膚病」とも訳されている病気です。
社会的に立派で勇士でもあったナアマン。
彼は悩んでいました。
周囲も心配していました。
そこに、イスラエルから若い娘を捕らえてきていました。

「アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
その女主人に言った。『もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。』
それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。」
5:2~4

その娘が「預言者の所に行けばきっと治る」と言ったのです。
将軍は、長年自分の病を治すために努力をしてきたことでしょう。
王も、敵国の王に手紙を書いて、贈り物を持たせて送り出すほどでした。
八方手を尽くしていたのです。

「アラムの王は言った。『行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。』そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。『さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。』」
5:5,6

北王国に預言者がいる。
そこに行けば治る可能性がある。
それを知ったら嬉しいことでしょう。
ここからが大事です。
「治る」となったら期待が生まれます。
すると自分の中に、自分なりのストーリーを形成してしまうのです。
妄想とも言うべきストーリーを。
ナアマンは治った状態に到るまでのプロセスを思い描きました。

親書を持って、贈り物を持ってイスラエルに行くことになる。
ナアマンは、妻から話を聞いて、事を進めていく中で、自分なりの期待や筋書きを描いていました。
「きっとこうして祝福してくださるに違いない」と。
そうならないとき、「なぜ神は助けてくださらないのか?」と言います。
主は祝福の計画を持っておられます。
私たちの期待と、神の計画が別です。
そのことが分かるのが信仰です。

家族の中でもあるでしょう。
「妻はこうしてくれるに違いない」と思っているのに違っていたら腹が立ちます。

「神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。」
5:8.9

ナアマンは入口に立ちました。
親書とともに、贈り物も持ってきました。
きっと歓待され、エリシャ自信とあいさつをし、やりとりをする・・・と思い描いていました。
ところがエリシャは使いの者を送ってきました。
会うことも、あいさつすることもなく、用件も聞かないで、

「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」5:10

と伝言で伝えさせたのです。
こんな失礼な!
一国の将軍です。
王から遣わされてきたのに、門のところに立たせて会話もせず、使いの者が指示をするとは。
「何と失礼な!」と怒ります。
もっともです。

「しかしナアマンは怒って去り、そして言った。『何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。』こうして、彼は怒って帰途についた。」
5:11,12

なぜ立ち去ったのか。
遠路はるばる来たのに。
人の行動の裏にある気持ちを聖書は記しています。
主は心の内をご存知だからです。

ナアマンは怒りをぶちまけます。
「~と思っていたのに」これは彼の期待であり、自分が思い描いていたストーリーです。

ふつう客を迎える時には、相手の角煮相当する人が迎える者です。
首相なら首相が。
国賓には天皇が接待するでしょう。
ナアマンにとっては屈辱的な扱いでした。
これがナアマンにとっては一つ目のショックです。

病が治る瞬間の映像も、ナアマンは思い描いていました。
そのシナリオが蹴散らされました。

自分が思い描いた通りにならない時に、人は怒ります。
自分の意見があって、それが教会のために良いことだと思ってい言っているのに否決される。
だからもめるのです。
神のご計画ということを考えていないからです。

時々がっかりすることがあります。
「家族で一緒に出かけよう」
と、妻に声を掛けたら
「もう予定が詰まっている。
 もっと早く言ってくれればいいのに。」
と言われてしまう。
そんなことがあります。
自分の中でもう出来上がっている計画が壊れるとき、自分が否定されているように感じます。
風船は大きく膨らむほど、破裂する時の音は大きくなります。
各々が期待や計画を持っていますが、それを超えた神のご計画に思いを合わせていくことが大切です。

エリシャの方法は華々しい舞台ではありませんでした。
ヨルダン川で7度身を浸せという指示です。
簡単なこと。
簡単だから腹立たしいのです。
これまでどれだけ苦しんできたか。
しかし、治るために必要なのは、神の言葉に聞き従うことでした。
エリシャは神のことばを彼に告げました。
自分があがめられないように、従者を使って。
そして、実行したらよくなりました。
良くなるための処方箋は、自分の願望を押し通すことではなく、神の計画に従うことでした。
期待は持っても良いですが、それを超える神の計画を知ること。
受け入れて従うこと。
それが大切です。
将軍の病は治り、まことの神をほめたたえるようになりました。

神を信じて祈る時に、いつの間にか自分のストーリーを作って、それが最善と思い込む・・・。
もっと大事なのは、神の計画にあることを知り、御言葉に立って行動を改めていくことです。
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5月27日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 2章 1~10節
「生まれたばかりの乳飲み子のように」
              柳橋宏祐神学生

この手紙は誰に向かって書かれたものでしょうか。
各地に散らばって寄留しているユダヤ人に対してです。
異邦人たちは、本当の神ではない他の神々を礼拝していました。
周囲と違う価値観で生きると、重圧や困難を感じます。
ユダヤ人が見知らぬ土地に入ってきたことで、彼らはあまりよい扱いをしませんでした。
違う文化を持ち、他の神々を礼拝する地域でクリスチャンとして生活を始める困難がありました。
日々いろんな戦いや苦しみを経験していました。
ローマにいたペテロは、彼らを励ますために手紙を送りました。

「私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。」5:12

ペテロは神のまことの恵みを伝えました。
そこにたち続けるようにと書き送りました。
私たちは、恵みによって救われ、その中にいてやがて完成されます。
行いによらず、信じて恵みの中に立ち続けるだけです。
人は困難や悲しみの中で恵みから離れていくことがあります。
もう一度恵みを知ることがいつも必要でした。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
2:1,2

自分に正直になるとき、心の内に沸いてくる悪意などを捨てることができないことを認めざるを得ません。
しかし、ここではそれらを全て捨てるようにと言われています。
それは、私たちは「それができる者」にされているからです。

「ですから」とは1章全体に書かれていることを受けています。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」1:23

神のことばによって、私たちは新しく生まれました。
人を通してではなく。
朽ちない種から生まれました。
朽ちる種からではなく。
私たちは新しく生まれた、つまり古い自分は死んで、新しく生まれた者になりました。
それは福音によってもたらされた神の恵みです。
イエスはこのことを教えるために奇跡を通して見せてくださいました。
福音書にたくさん書かれています。
聞こえなかった人が聞こえるようになり、手足が動かなかった人が動かせるようになり立ち上がりました。
肉体的に死んだ者がもう一度よみがえりました。
霊的に神を見ることができなかった目が神を見、聞いて悟ることができるようにされ、神のために手足を動かせるようになりました。
罪の中に死んでいた者がよみがえらされ、神に受け入れられ、生きた供え物として捧げられるようにしてくださいました。
それは福音によるものであり、信じる者に与えられる聖霊の力です。

イエスは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に付けられ、3日目によみがえり、天に召され、王としての栄光をお受けになりました。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」1:8

私たちは今イエスを知っているので、見たことがなくても、霊によって愛し、信じ、喜んでいます。
全ての悪意を捨てて、乳飲み子のように乳を慕い求めるように。
生まれたばかりの乳飲み子のように、慕い続けることが必要だと教えられています。
いつも聖書を持ち、読みながら、祈らずにはいられない。
そうしなければ、内に湧いてくるねたみや悪意をどうすることもできないからです。

私はアパートの2階に住んでいるのですが、友人は1階に住んでいます。
起きて降りていくと、顔を合わせます。
嫌な顔をされるとむかっとしてしまいます。
怒りがわいてきたり、自分よりもできる人、気に入られている人を見るとねたみがわきます。
本当は自分はいい人ではないのに、表面的にお面をかぶって見せるようにしたり。
悪意はどんどん膨らんでいき、人を憎んでしまいます。
そんな時は祈らざるをえません。

乳飲み子が喘ぎ求めるように、純粋に霊の乳を慕い求める。
いらだった時はすぐに祈り、み言葉を思い起す。
福音によって新しくされているのだから、罪は許されていることを思い起こす。
御霊を与えられて自由にされていることを思い起こせるように、主のもとに逃げていく。
主は、責めることなく、惜しまずに乳を与えてくださいます。
昨日は友人と一緒に祈ることができ、感謝と喜びをいただきました。

霊の乳は純粋です。
私たちは純真なものへと変えられていきます。
なぜ慕い求めるのか。

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」2:3

主のいつくしみがどれだけ深く、喜ばせてくれたかを知っているからです。
私たちは、十字架上で示されたいつくしみを味わったからこそ、従う決心をしてクリスチャンになりました。
きよめようとしてくださった恵みの味を思い起こして、もう一度それを求めて向かっていくように教えられています。

2章の1~3節は「勧め」、4~5節は「慕い求めた結果」が書かれています。
私たちはイエスの上に建てられている霊の家です。
内に主が住んでくださっています。
かなめの石はイエスキリストです。
主は私たちを聖なる祭司としてくださいました。
霊のいけにえを、イエスを通して捧げる祭司です。
「いけにえ」を持ってくるのではなく、自分自身を捧げます。
イエスを通して。
私たちは霊の家です。
どこにいても。
私たちは要石の上に建てられています。
イエスの上にある限り安心です。
私たちは、自分で神に近づくことはできません。
イエスが罪を洗い流してきよめてくださったから近づくことができるのです。
大祭司として、イエスがとりなしてくださっているから。

6~8節には理由と目的が書かれています。

「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって、」
2:6,7

神がイエスを選び、要石として据えてくださったから、決して失望させられることがありません。
「シオン」とは旧約時代のエルサレムです。
今は神は全世界の教会の中に住んでいてくださいます。
栄光を表すために。
この石によって私たちは救われています。
しかし、信じない人々には躓きの石なのです。
躓くのはみ言葉に従わないからです。
福音の言葉を信じなかったすべての人を裁くために、イエスはもう一度来られます。
イエスは救うために来られましたが、拒むものには怒りが留まっています。
主は今も全ての人を招いておられます。
誰でも、どんな罪を犯していても、信じるならば救われます。
救いの目的はこうです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
2:9、10

私たちは憐れみを受けたものです。
願ったから、努力したから、ではありません。
神が闇の中から光の中へ召してくださいました。
神の栄光を告げ知らせるために。

まとめます。
福音を信じたことで、私たちは朽ちない種から新しく生まれました。
霊的に生きる者とされて、神を知るものとされました。
全ての悪意を捨てて、霊の乳をイエスに求めるように勧められています。
それによって成長し、救いを得ることができます。
み言葉を求めて祈るなら、与え続けてくださいます。
私たちは霊の家に築き上げられます。
すべきことは、へりくだって乳飲み子のように純粋に慕い求めることです。
神の栄光を告げ知らせるために。

5月20日 礼拝説教

使徒の働き 3章 17~26節
「」
    hi-b.a. 丸山告スタッフ

私は高1のとき、自分がクリスチャンであることを公に表すことができました。
父が牧師で、家は教会だということを。
それまでは隠れて密かにすごすものだと思っていました。
キャンプを通して、信仰に生きることは素晴らしいことだと知りました。
「クリスチャンだ」と言うと、友人から質問攻めにあいました。
友人は予想外の質問をしてくるんです。
「家にマリア像はあるの?」
ありません。
「毎日ざんげしてるの?」
毎日するわけじゃありません。
「聖書読めるの?聖書って右から読むんでしょう?」
これはおそらくヘブル語が右から左に書くことを知っている子が聞いてきたのだと思いますが、考えてみれば日本語も縦書きなら右から左に読みます。
「肉食べちゃいけないの?」
そんなことはない、全部好きだと答えました。
「いいの?それで?」
彼らの結論はこうでした。
「な~んだ。オレらと変わらないじゃん」
「もっと難しいことをやってると思った」

信仰生活は多岐にわたります。
信じてから悩みが増えた、と言うこともよく聞きます。
福音はシンプルで分かりやすいものです。
そうでなければ多くの人が救われることはないでしょう。

使徒の働きを順番に学んでいます。
変えられた人に興味を持った人々の話の続きです。
ペテロは集まってきた人々に語りました。
私たちも霊的に立ち止まるときがあります。
人の手を借りて凄そうとするときが。
全ての解決はイエスキリストを知ることにあります。
3章12~26節のうち、前回は12~16節を話しました。
「足の悪かった人を癒したのは、自分がしたことではなく神がしたことであり、預言されていたのはイエスだった」とペテロは語りました。
4章4節には結果が書かれています。

「しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」4:4

悔い改めについて、ペテロは旧約の人物の名を上げて説明します。
3章19節がポイントです。

「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」3:19

ペテロの初めてのメッセージでは3,000人が救われ、今回は2回目です。
男性は理屈っぽいものですが、ペテロの説教は彼らを納得させられる内容だったのです。
なぜこうなったのか、3章全体を読み返すと際だつ言葉があります。
それは「復活用語」です。
3:6「立ち上がって歩きなさい」
3:7「右手を取って立たせた」
3:8「躍り上がってまっすぐに立ち、歩き始めた」
3:15「死者の中からよみがえらせました」
「よみがえる」という言葉は「立たせる」という意味です。
「立たせる」という言葉は3つぐらいあります。
「亡くなったものがよみがえる」という意味は3:7,15で用いられています。

聖書に何を期待しているでしょうか?
1対1で。
礼拝説教で。
聞く側の注意点があります。
キャンプで説教をすると、慣れている参加者は「次はこうくるでしょう?」と分かっています。
初めて教会に来た人に「どうでしたか?」と尋ねたら「よかったです」という反応が来るでしょう。
「最悪です」という大人はいません。
心の中で思っている人は分かります。
「よかった」という人はうれしそうに語ります。
それは「受け止められる範囲内で」良かったということです。
「はたして、耳に心地よいものでよかったのか?」と思います。
聖書全体から考えると、深い絶望にかられるはずです。
聖書は希望よりも、人間の罪の絶望で始まります。
なぜ聖書が必要不可欠なのか。
それは聖書全体を通して、「自分の力では立てない」ことを教えてくれるからです。
今の生活にイエスを足しても意味はありません。
自分では立てないことを知ってからでないと。
自分が無となると言うことではありません。
悔い改めには大きな魅力があります。

中1の頃、欲しいものが色々とありました。
でもお小遣いもないので、「いいな」と思って諦める繰り返しでした。
あるとき、どうしても欲しいものがありました。
当時はスーパーファミコンの時代です。
画面はきれいで、コントローラーにはボタンが6個もついています。
その最新ソフトがでるというのです。
ストリートファイターというゲーセンでしかできないゲームが家でもできる!
値段は9,500円。
私は考えました。
そして、自分が持っている全てのソフトを売ってお金を作ろうと思いました。
ソフトと生徒手帳を持って買い取り店へ行きました。
親には隠れてやていました。
初めて1万円近くのお金を稼いで、買ったのです。
記念にレシートを取っておきました。
それも机の真ん中に置いておいたのです。
母に見つかりました。
「どこで何をやってたの?」
「別に・・・」というと、怒られました。
『親は時間が経つまでやり過ごすしかない』と思いながら聞いていました。
すると途中でパウロの話になりまいした。
私は自責の念がありました。
『次はうまくやろう』と思いました。
そして、
「でも、これは期間限定で…」と言ったら、それまでの3倍ぐらいの時間叱られました。
親にとっては、隠れてしたこと、嘘をついたことが重要でした。
それからは大事なことについては親に相談してからしようと思いました。
そして、後悔は悔い改めからはかけ離れていると思いました。
告白の行動をとることが悔い改めです。

120人のグループが、3,000人に、さらに5,000人加えられていきました。
仮に1万人とすれば100倍近い成長を見せた、その核は「悔い改め」でした。
ペテロはあらゆる機会に悔い改めのメッセージをしています。
通常、教会では一人の牧師から話を聞きます。
「何度同じテーマで話すのか」と思うかも知れませんが、大事だからこそ繰り返し語るのです。
聖書は何度も「自分一人では立てない」と教えてくれます。
主はわかりやすいシンプルなメッセージで示されるのです。

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」3:26

5月10日 母の日感謝礼拝

マタイの福音書 20章 17~28節
「あなたにひざまずく神」
                           早矢仕宗伯師

おはようございます。
主は、「よく来た」と言ってくださいます。
「この一週間、いろんな経験を積んできただろう。
私を忘れて過ごしてきたのではないか?」と。
私たちは、いつもイエスのことを覚えていられるわけではありません。
ほとんど忘れて生きてきて、ここに帰ってきてハッと思い出したりするのです。
「あ、そうだった。
イエス様に支えてられていたんだなあ」と
なぜ私たちは毎週日曜日に集まるのでしょう。
なぜここに集まるのでしょう。
いとんな理由があるかも知れませんが、イエスが呼んでおられることは確かです。
「いらっしゃい」
「帰っていらっしゃい」
「もう一度思い起こして、新しく始めなさい」と。

今日は「母の日」だとうかがっています。
まあ、世間的にも母の日です。
実家にいるときには母にプレゼントをあげていました。
クリスチャンになってから、悔い改めてプレゼントをあげるようになりました。
毎年同じものを贈ります。
何をプレゼントしていたか、想像つきますか?
答えは、パイナップルです。
「なんで?」と思われるかも知れませんが。
丸ごとのパイナップル。
花はすぐにしおれるし、実もないし。
実のあるものをと思ってそうしました。
たまたまコンビニで見つけたんです。
なかなかもらわないでしょう?
では父の日は何だと思いますか?
わからないと思います。
メロンをあげました。
つるんとしたメロンではないですよ。
シマシマのついたやつです。

母は一生懸命です。
子どものために。
よくやるな、と思います。
私も父親ですが、妻に「もう放っておきなさいよ」と言います。
もっと自分のことをやればいいのに、と思います。
もう大人なんだから、朝起こす必要はない。
「朝ご飯を食べろ」とか、言わなくても…と思います。
一般論として、母親は自分自身のみのように子を見捨てることができないものです。
私の母は健在ですが、実家に変えると3日目までは大人としていられますが、それ以上経つといろいろと言われます。
50歳を越えた大人なのに。
「ちゃんとご飯を食べなさい」と言われるんです。
母というのは子を見捨てることができない。
知らず知らずのうちに子のために、手が動き、足が動きます。
その愛の深さは神がご自分の愛を例えるほどです。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」イザヤ 49:15

神の愛は母の愛に勝ると。
一人の人が生まれ、成長するためにどれだけ多くの犠牲が必要でしょうか。
誰かの犠牲なしに、だれも一人で生きていくことはできません。
今ここに生きていると言うことは、誰かの犠牲があってこそです。
自分でないだれかの犠牲があってこそ、生きられます。
今日あなたを生かしているのは、あなた自身ですか?
あなたは生かされています。
誰かがあなたを生かしてきたのです。
一生懸命身を削って。
いつからでしょうか。「自分で生きている」と思うようになったのは。
だれも一人では生きていけません。

イエスの元に、一人の母が駆け寄ってきました。

「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
イエスが彼女に、『どんな願いですか』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」
マタイ20:20、21

必死でした。
一生懸命でした。
歳を取ると、体は走らないけれど、心が走ります。
ヤコブとヨハネの母です。
いつもイエスのそばに置いてもらっていた、ペテロ・ヤコブ・ヨハネ。
その中の二人の母親です。
「お願いがあります」と。
この二人はいくつだったのでしょう。
イエスは「どんな願いですか」と聞かれました。
どうしてこんなことを言ったのでしょうか。
場をわきまえない、空気を読めない発言です。
ご自分の十字架と蘇りの話をしていたときです。
十字架に向かって行くことを、弟子たちに話していた時です。
あと数日で十字架に付けられるという大事な場面で割り込んできたのです。
イエスの歩みを止めるかのように。

母は分かっていたのかもしれません。
「今は大事なときだ」と。
「今しかない」と。
この機会を逃してはいけないと思ったのでしょう。
彼女はひざまずき、ひれ伏しました。
土下座です。
簡単にできることではありません。
「主イエスに準ずる地位をこの子たちに与えて下さい」と。
それだけ必死だったのです。
この子たちのためなら、と。
イエスはそれを正面から受け止められました。

「けれども、イエスは答えて言われた。『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。』彼らは『できます』と言った。
イエスは言われた。『あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。』」
20:22,23

私が歩む道についてこられるか?と問われました。
イエスは母親を叱りませんでした。
弟子も叱りませんでした。
「こんな時に何を言っているんだ!」と叱るか、無視するのが普通ではないでしょうか。
イエスは受け止めました。

想像しましょう。
イエスは母親の姿を見ながら、ご自身の母マリヤを思い浮かべていたのではないでしょうか。
この母親が出てくるのはマタイの福音書だけです。
なぜだろうか、と思います。
イエスのように生きる道を教えられた、一番大事な話をされたこの場面で。
私たちは「弟子たちはなんと愚かなのか」と思います。
もっと見るべきはイエスの姿です。
主はそんなことがあっても、一番大事なことを話そうとされます。
神の愛に生きる道を。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』」
20:25~28

これらはイエスにとって最も大切な言葉です。
「私がそうであるのと同じだ」と。
「私と同じように仕える者になれ」と。
イエスの姿は、母の姿です。
息子のために伏して願う母親の姿と、ご自分を重ねてられました。
「何と空気を読めない」「品のない母だ」とは思っておられません。
ご自分と重ねてみておられるからです。
イエスは全ての人の為に命を捨てようとしておられました。
なりふり構わずに。
全てをなげうって命を捨てようとしているご自分と、その母親の姿は重なりました。
イエスは新しい命を与える為に、命をささげてくださいました。
その命は、人に新しい生き方を生みます。
それは仕える道です。
我が身を捧げる道です。
そのために、イエスは死んでよみがえられたのです。
仕える命を与える為に、イエスは十字架で死に、よみがえってくださいました。
今、主はあなたに新しい命を与えられます。
永遠の命です。
永遠の命とは?
尽きない、なくならない命。
いくら差し出してもなくならない命。
その命を使うために私たちは生きています。
なくさないようにと、箱にしまっておいたら見失ってしまいます。
命は遣う者です。
誰かのために捧げるものです。
この世はそのようには言いません。
「守らなければいけない」「大事にしなさい」と言います。
主は、「命を誰かのために使いなさい。いくら使ってもなくならないから」と言われます。
尽きない命で尽きない愛を与えられています。
あなたの中から湧き出てきます。

イエスは、今日もあなたに仕えていらっしゃいます。
あなたの前にひざまずいておられます。
福音書に書かれているイエスの姿を見て星ほしいと思います。
いつも仕えておられ真s。
いつもひざまずいておられます。
主イエスは、ひざをかがめていらっしゃいます。
全てを捧げ尽くして下さいます。
「私の命を受け取れ」と。
イエスを信じるとは、イエスの命をいただいて生きることです。
イエスの命を受け取ってください。
イエスはあなたの内に生きておられます。
あなたの中で、イエスは仕えるものとなり、ひざまずいておられます。
一生懸命に仕えている時に「なぜこんなことをしなければならないのか」と思う時に、主があなたの内におらることを思い出してください。
お母さんを思い出してください。
あなたの中の主イエスを見てください。
仕えることは愛から生まれます。
イエスは今も仕え、今も生きておられるのです。

5月6日 聖日礼拝

コリント人への手紙第1 10章31~11章1節
「キリストを見ならって」
            大治福音自由教会 服部真光師

今日の聖句は2017年度大治教会の年間指標聖句でした。
船で航海するにも、飛行機に乗るにも、どこに行くか、目的地はどこかが大切です。
目的地を決めずにぶらぶらする旅もあるでしょうが、多くの場合行くべき場所、目的地を決めて出発します。
神も私たちにそのような目当てを与えて下さっています。
教会として、どこに歩んだらよいかが明確である必要があります。
エジプトの苦しみから助け出されたイスラエルの民は、アブラハムの約束の地へ向かいました。

「抗菌グッズ」というものがあります。
なんでも抗菌がよいと思っている人も多いですが、抗菌グッズは大敵なのです。
子どもはばい菌に触れながら、それに負けない抵抗力を身につけていきます。
戦った経験のない体が菌に出会うと大変な事になります。
だから「動物園へ行こう」という運動があるほどです。
抗菌ではなく、菌に囲まれながら菌に負けない体を作るためです。
私たちは御国への途上で強くされる必要があります。
永遠の命の目的は何でしょうか?
それは御国を受け継ぐことです。

神の国に入る前に心の中に形成されるべきものがあります。
たとえば、普通の人が東大に入れたとしたら幸せでしょうか?
周囲のみんなは天才で、自分だけが凡才。
講義について行けないかも知れません。
肩身が狭いでしょう。
天の国も同じです。
主を崇めていないのに、御国に入ったら?
天国は一日中神の臨在があり、隅々まで主の目が行き届いている場所です。
御父を愛している人でなければ、そこは「天国」ではないでしょう。
子どもの頃、兄は遊園地が嫌いでした。
家族で「ディズニーランドに行こう」となったとき、「俺は楽しくない。行っておいで。」と言いました。

天の御国に入る者は、天にふさわしい者になるよう求められます。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」10:31

「ために」とは目的をあらわす言葉です。
「食べること」「飲むこと」とは、毎日欠かさずしていることです。
毎日欠かさずすることをするときの目当てが「神の栄光を現すこと」だと言うのです。
食べ物を食べるときの基準は何ですか?
好きか、嫌いか。
美味しいか、美味しくないか。
カロリーが高いか、低いか。
健康を考えてバランスがよいか、悪いか。
いろいろあるでしょうが、「神の栄光を現す」基準はどれでしょうか?
自己中心的な基準はどれでしょうか?
罪の本質は「自分のために」という考え方です。
神の栄光を現すのは「みんなのために」という考え方です。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
ピリピ2:3,4

そのためにすべきことが、次に書かれています。

「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。」10:32

「つまずき」とは、神に対するつまずきです。
神を信頼して歩んでいる人に、神への信頼を失わせるようなことをしてはいけないと言っているのです。
つまずきそうな人を支えることも大切です。
これは否定的な勧めですが、積極的な勧めが次に書かれています。

「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」10:33

鄭先生が脳梗塞で倒れたときのことです。
主治医の先生から問われました。
「脳梗塞の治療と、脳出血の治療のどちらを優先しますか?」
と。
脳梗塞を治療するためには、血の流れをよくしなければなりません。
すると、脳出血を止めるのが難しくなります。
逆に脳出血を止めるには、血液を固まりやすくしなければ鳴りません。
すると、脳梗塞が他の場所でも起こるリスクが上がります。
究極の選択です。
私は先生に聞きました。
「どちらのほうが危険が少ないのですか」と。
「脳の3分の2が脳梗塞を起こすと植物状態になる」
という答えでした。
そこで、脳梗塞の治療をお願いしました。
主は、行政、医療帰還を動かし、日本のために身を捧げて下さった鄭先生が老後を過ごせるように守って下さいました。
「神は生きておられる。決して見放さず見捨てない。」
と教えられました。

人生の目的は、自分が褒められ、認められることではありません。
主がそれをして下さったのですから。
「いつも共におられ、最善にしてくださる」と、神を称えることになるのです。
食べるにも、飲むにも、自分の楽しみのためだけでなく、仲間と共に楽しみましょう。

皆さんよくご存じと思いますが、私は「反省会」は嫌いです。
「感謝会」のほうがいい。
神の感謝を捧げることを目当てに、すべてをしていくのです。
それこそが、クリスチャンが取り組むべき事です。
どうやったら困難を感謝に変えられるか。
財産、納涼、何でも欲しいものを主に求めましょう。
神の栄光を現そうとしている人には、何でも与えられます。
知恵も、富も、与えて下さるのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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