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9月30日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 11章 1~45節
「あなたは信じますか?」
               村井義信伝道師

私は、信じたくても信じることができませんでした。
クリスチャンになって36年後の今も、ここにいるのは奇跡でしかありません。
主の憐れみだと、霊派の旅に感謝師かありません。
みなさんは、共に礼拝を捧げる仲間であり、戦友です。
聖書のことが分からなくても、「イエス様を信じます」と言うことができて、共に礼拝できるだけでも幸いです。

ヨハネの福音書には7つの奇跡が書かれています。
そのひとつめは「カナの婚礼」の奇跡で、最後が「ラザロの死と復活です。
「しるし」の目的は何でしょうか?

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネ 20:31

それは、「信じるため」です。
聖書全体のまとめでもあります。
今日は最後のしるしを通して学びたいと思います。

ここに出てくるのはベタニヤに住んでいた姉弟です。
ラザロが急病になり、姉たちはイエスに多雨家を求めましたが、イエスが到着したのは死後4日目でした。
イエスは「信じる者は死んでも生きる。」と言われ、墓にいるラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけると、ラザロが出てきました。
これを見たユダヤ人は信じましたが、一部の人はそうではありませんでした。
そして、これが「イエスを殺そう」というきっかけになったのです。
イエスはこの3姉弟を愛しておられました。
ルカの福音書によると、マルタは活動的、マリヤは物静かな印象を受けます。
でも、マルタもよくイエスの話を聞いており、聖書をよく知っていました。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』
彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」
ヨハネ11:25~27

マルタはもう信仰を持っていました。
ラザロはここで初登場です。
イエスに助けを求めたのは正しい判断でしょう。
彼女たちは期待していました。
「イエスは私たちを愛してくださっているから、すぐに飛んできてくれるはずだ」と。
イエスは多くの人の病を治していたのですから。
しかし、姉の思うとおりにはなりませんでした。

「マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」ヨハネ11:22

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」11:32

「なぜもっと早く…」と、不満と不信感を感じました。
マリヤも同様です。
愛してくれているはず。
すぐ来てくれるはず。
しかし、一方で神のご計画があります。
神と一対一の関係を築くことは必要です。
同時に、「自分は多くの神の民のひとりにすぎない」という謙遜さも必要です。
「自分は神の民だから、自分の思い通りになる」という考え方は違います。
わきまえがないと不満や不信が起こります。
このようなことは、牧師に対しても起こりえます。

マリヤとマルタは「イエスなら病気は治せるが、死んだらダメだ」と思っていました。
弟子たちも大差ありませんでした。

「そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』
しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。
わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』」
ヨハネ11:12~15

そこが信仰の限界であり、彼らの実力でした。
信仰がまだまだ薄いのです。
残念ながら、それが現状でした。
自分に信じられることだけを信じている。
見なければ信じられない。
それでも、「薄い」ということは「ない」ということとは違います。
少ないながらも「ある」のです。
信仰がなければ救いようがありませんが、「小さい」のであれば、育てればよいのです。
伸びしろがある。
そのことに気付いておらず、現状に満足しているなら残念なことです。

死と向き合うこと。
36年前に私が信じたとき、

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」ヨハネ10:28

という御言葉を聞き、それならもらおうと思いました。
毎日の生活の中に、神の奇跡があります。
私たちは神の支配の中にいることを知ります。
弟子たちは見聞きしていても気付いていませんでいした。

イエスキリストこそ、生死全てを支配している神です。
そのことに対する信仰を目覚めさせるための奇跡でした。
私たちは神によって作られ、神によって守られています。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103:2

何一つ忘れるな。
これは、ダビデの「恵みによって生かされていることを忘れないように」という決心です。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』
彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」
11:25~27

いつでも信仰の告白をし、決断することが大切です。

ヨハネの中の6つめの奇跡は、盲人の目が開かれた奇跡でした。
その時イエスは、かつての盲人に「あなたは人の子を信じますか」と問われ、彼は「主よ、信じます」と答えました。
マタイの9章では、二人の盲人に「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われ、彼らは「そうです。主よ」と答えました。
イエスは決断を迫ります。
決断したら、素直に告白するのです。
それがコミュニケーションであり、祈りです。
私たちは「○○してください」と祈ります。
主は「信じるか?」と問われます。
ところが「信じられない症候群」の人がいます。
祈りが途中で終わっているからです。
「信じられますように」と祈るのは信仰ではありません。
「信じます!」と祈るとき、その通りになります。
それは、「思い通りになる」という意味ではありません。
「神の思う通りになる」と信じられるようになります。
「信じられますように」というのは、「信じたくない」という心の現れです。
「愛します」「赦します」「信じます」と決断し、告白することを、主は喜ばれます。
信じると告白したとおりになります。

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』」
11:41,42


これは手本の祈りです。
祈りが聞かれる前に、感謝しています。
このまねをすればよいのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」ヨハネ13:15
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9月23日 聖日礼拝

ペテロの手紙第一 3章 8~12節
「神さまは正しく生きる人を祝福される」
              柳橋宏祐神学生

この箇所を読み、友人と語り合いながら、神の召しは本当にすばらしいと思いました。
クリスチャンの生き方は、本当はとても美しいと。
それは、教会の交わりの中でしか見つからないものであり、全ての人が求めているものです。

①召しの美しさ

「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
3:8,9

新しい訳の聖書では「ひとつ思いになって」とあります。
もしひとつ思いになって、道場試合、兄弟愛を示し合い、心優しく、謙虚で、悪に悪を返さず、祝福しあうなら、その高希有は美しいのではないでしょうか。

・ひとつ思いになる

みんなが一緒にならなければ…それに対して、「狭苦しい」「いやだ」といういう反発があるかも知れません。
各々個性があり、受け入れあうことも美しいです。
ここでは、「思い」がひとつになること。
形ではなく、最も深い思いでひとつになるようにと言っているのです。

私は他のクリス班の姿に美しさを感じたことがあります。
ルーマニアに行く機会がありました。
オーストリアに住んでいる方で、以前ルーマニアの神学校で学んでいた方がいました。
当時ルーマニアは共産圏でした。
その家庭にお世話になりました。
もう一人牧師さんもいて、再会を喜び、抱擁し合っているのを見て、涙がこぼれました。
国を超えて、ひとつの思いになっている姿に感動しました。

・同情しあい

教会の人間関係は、仕事を中心とした関係ではありません。
キリストを中心とした神の家族です。
別の家庭で生まれた者同士が、家族になれるのです。
自分が「同情」できなかった経験を最近しました。
LINEグループからメッセージが来て、「祈って下さい」と書かれていました。
グループの人たちは「祈ります」と返信していましたが、自分は「めんどくさい」と思ってしまい、祈らずに他の人にメッセージを返していました。
疲れて帰宅して、LINEをチェックして、めんどくさいと思いながらメッセージを返すことが何度もありました。
でも、ここでは「同情し合うように」と召されています。
その後、私は祈りに導かれました。
その時に、「同情」は本当に尊いと感じました。
体は離れていても、自分がその人になったように考えながら祈る中で、距離が近くなるような思いになりました。
同情し合う喜びと、美しさに気付かされました。
自分も、同情をたくさん受けてきました。
落ち込んで、誰も顔を合わせられないと思っているときにメールをくれて、祈り、励ましてくれました。
なぜ?と不思議に思いながら、助けられ、慰められて寄り添って生きていくように、主は私たちを暗やみの中から選び出して下さいました。

・兄弟愛を示す

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」ヨハネⅠ 3:18

愛しているなら、手を伸ばして犠牲を払って助けます。
アメリカから来た宣教師がおられます。
日本に住む海外のクリスチャンや、外国人の環境で育った子たちと関わっています。
招かれて一緒に楽しんだことがあります。
その方の言葉です。
「私は彼らが孤独で仲間が必要だと感じています。
 このように安心して笑い合う、ゆっくりすごす光景を見るのが幸せです。」
何と美しい心を持っているのだろうと思いました。
私たちもそのように召されています。

・心の優しい人となり

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
エペソ4:2,3

優しい心で赦し合うことを教えています。
争いや憎しみ、壁があるところには美しさはありません。
違いがあっても、関係が一度壊れても、回復され、赦しがあり、平和があるなら、そこには美しさがあります。
人間には、本当の平和を作り出すことはできません。
罪人だからです。
しかし、私たちは平和を作るように召されています。
教会がに平和が実現し、人々がそれを見る時に、神の栄光が現されます。

・謙虚でありなさい

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ピリピ 2:3

へりくだって、相手が自分よりも勝っていると思うこと。
自分は何者でもないと知ること。
その反対は「高ぶり」です。
「人より勝っていたい」という重いがだれにもあります。
自分が下に見られていると思うと落ち着かず、その思いから遠ざかるために人から離れていこうとします。

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。」箴言11:2

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」箴言13:10

高ぶりは、恥と争いを生みます。
謙遜は知恵を生みます。

・悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず

悪は連鎖します。
これは悲しく苦しい状況であり、壊れた関係です。
仕返しをせずに祝福する。
そのような美しい交わりが実現するのを見たいと思いませんか?

② 誰を祝福されるか?

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。
主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
3:10~12

心の願い、言葉、行い。
命を愛し、幸せな日々を過ごしたいと願うなら、他人を欺く言葉を言わず、悪を離れて善を行うように。
そして、平和を求めて追い求めるように。

私たちは自分の力で正しく生きられるでしょうか?

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
ローマ3:9~12

全ての人が、罪に死んでいます。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ローマ3:23,24

恵主は、みにより、十字架により、私たちを買い取ってご自身の子して下さいました。
子にふさわしくなるよう、聖霊を与えて下さいました。
主に感謝します。
正しい人はひとりもいないから、正しいことができるように変えて下さるために、私たちは召されました。
悔い改めながら、正しく生きるのです。

まとめましょう。

① 神が福音によって与えて下さった召しに感謝し、賛美を捧げましょう。
② 自分をよく見ながら悔い改め続けましょう。
 罪を示されるのは苦しいですが、牧者であるキリストが私たちを導いてくださいます。
③ 諦めない。
 失敗に失望してしまいがちですが、諦めてはいけません。
 イエスは諦めません。
 今も、取りなしていて下さるのです。

9月9日 敬老感謝礼拝

詩篇 91篇 16節
「長寿で満たされた人生」
       フィリピン福音自由教会 プリスコ師

「わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」詩篇91:16

神は困難な状況に生きている神の民に話しています。
①人生の長さ②満足③救い。
神がこれらのものを与えて下さると。

①長いいのち

命の長さを決めるのは神です。
地球上に生きる日数を、自分の能力で生きているわけではありません。

「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』」詩篇90:3

「そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」ヨブ記 1:21

人生そのものを、主が与え、主が取られます。
その結果、人生を神からの贈り物と見なします。
そうして、神に敬意を表します。

人生を慎重に扱います。
神がいないかのようにするのではなく、私たちが神に依存していることを知っています。

神の主権的支配に信頼します。
神は個人的な人生の中で、働いておられます。
どんなに大変な状況の時でも。

死に直面する準備をしなければなりません。
その後の裁きに対しても。
人生は死で終わり、その後に裁きが来ます。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」ヘブル9:27

裁きの基準は、キリストと福音に対する態度です。

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」ヨハネ12:48

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」テサロニケⅡ 1:8

・人生で重要なのは、持ち物や、いのちの長さではありません。
・キリストと福音に対してどのような態度を取るか、です。
・キリストを救い主手として受け入れていますか?

②満ち足らせ

人生を道垂らせるのは神です。

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」
詩篇91:1~4

不満を言う人がたくさんいる。
仕事がない事への不満。
仕事への不満。
結婚していない孤独への不満。
結婚していても不満な人がいます。
車、iPadなどを変えるようにパートナーを変える人もいます。
使い捨て商品のように。
フィリピンではだれが大統領になっても不満があります。
どの国にも政治的な問題があるでしょう。
周りで怒る事だけでなく、内側で起きることにも不満があります。
本当の満足とは、神からの満足であり、神からの贈り物です。
満足は「問題があるときに、神がいる」ということです。

「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。」
詩篇91:5、6

ここから得るレッスンは
・満足は「問題がないこと」ではなく、神の存在である。
・私たちが愛する対象である、神の存在を楽しみましょう。
・教会を人で満たす事ではなく、人々を神で満たす事に焦点を当てましょう。

③救いを見せよう

救いにはふたつの特徴があります。
・救いは神から来ます。
 人間が作ったので張りません。
・この世の人生の後の、別の人生のための救いです。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」詩篇23:6

・救いは墓よりも向こうに続きます。
・よりよい世界に移されます。

「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」Ⅱコリント 5:8

「また私は、天からこう言っている声を聞いた。『書きしるせ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。』」黙示14:13

死は永遠に神のもとにいる入口です。
・真の現実はこの世のものではありません。
 この世界が与えられない者があります。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
マタイ16:26

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
マタイ10:28

みなさんはキリストをどれだけ知っているでしょうか?
今日死んだら、神と共にいるという確信はありますか?

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

イエスが、神のもとに行く道です。
神を知る真実です。
そしていのちです。
全てを持っていても、キリストを持っていなければ十分ではありません。
何を持っていなくても、キリストを持っていれば十分です。
無限の希望があります。
ここに、長寿、満足、永遠の救いがあるのです。

9月9日 聖日礼拝

テモテへの手紙第2 1章 1~8節
「テモテを生かしたパウロに倣って」
                水谷潔師

以前ある教会で、次世代の救いと成長をテーマに1泊でお話ししたことがあります。
その教会は、深刻な少子高齢化に直面していました。
失望させてしまうのではないかという不安がありました。
自信がありませんでした。
その1週間前に、別の教会で奉仕しました。
その教会は、平均年齢が30代後半。
高齢者から子どもまで、幅広い人々が集まっていました。
しかし、そこも、20年前は平均年齢60代の、十数名の教会でした。
そこに若い牧師が赴任したのでした。
私は、その牧師に聞きました。
すると、こう問われました。
「なぜ若者に来て欲しいのですか?
 教会を続けるためですか?
 若者を救いたいからですか?」
そのとおりだと思いました。
動機が大切です。
若者を、手段と考えるのか、愛の対象と考えるのか。
上の世代にそれを問うことなく勧めることは難しいと思いました。
1泊修養会で、参加された方は、痛いところを突かれ、悔い改めました。

私たちが若者に、教会に来て欲しいと願うのは、滅び行く魂を愛しているからでしょうか。
組織を存続させたいからでしょうか。
後継者を求めているだけでしょうか。
動機は愛なのか、利用したいという欲なのか。
次世代を愛し、育てることについて、聖書にある成功事例を見ていきたいと思います。

これは、若い伝道者テモテに書いた手紙です。
つぶれかけていたテモテのV字回復のきっかけは、パウロの手紙でした。
ここには3つのポイントがあります。

①原則
②現れ
③動機

この3つです。

①原則:罪には厳しく、弱さには寛容に

パウロとテモテは正反対のタイプでした。
肉食系ど根性伝道者パウロに対して、草食系へたれ伝道者がテモテでした。
メンタルもフィジカルもです。
ここには世代間ギャップがあります。
パウロ世代から見ると、テモテの世代を見ると歯がゆかったことでしょう。
でも、パウロは寛容でした。

「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」ガラテヤ2:11

パウロは元々きわめて厳格でした。
ケパ(ペテロ)が異邦人伝道に対して無理解だったことに対して、人の面前で非難したのです。
パウロにとってペテロは大先輩。
それでも、真理については妥協しませんでした。
そんなパウロが、後輩には寛容を示しています。
未熟さにはできる限り譲歩したのです。
もし寛容さがなければ、若者たちは成長する前に教会から姿を消すでしょう。
教会のしきたりや常識になじめず、上の世代からの心ない言葉を受けたら。
個人差はあるでしょうが、現代はテモテのような若者が多いと思います。
彼らはよい賜物を持っています。
弱さ、傷つきやすさのために、それを生かせていない。
上の世代の基準で計るのではなく、愛する、つまり理解することが大切です。
「寛容な心で愛する」
彼らはガンガンと真正面から伝道しないか漏れませんが、まったりと、交わりの中で証をして、人をキリストに導きます。
上の世代とは異なるスタイルかも知れませんが、信仰の本質を受け継いでいます。

②原則:愛の配慮に満ちている

「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。」
1:3,4

・注意をするときには、感謝と愛でスタートする。

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」1:5

・課題や欠点よりも先に長所を示す。
 褒めて、認めてから課題を指摘する。

「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」1:6

・否定やダメ出しではなく、お願いする。
 お願いモードで、期待して語る。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」1:7

・課題を克服するための指針を提示する。
 聖霊への信頼をする。

「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」1:8

・「恥じることなく、苦しみを共にして欲しい」と、大きな期待を伝達する。

私自身、30代の頃は無思慮な熱血伝道師でした。
若い人々をつぶしてしまったのではないかと、悔い改めしかありません。
愚痴る前に、御言葉の前に自分を問いましょう。
今まではどうだったか、ではなく、これからどうするか、に目を向けましょう。

③動機

なぜパウロは寛容だったのでしょうか。
以前のパウロはそうではなかったのに。

「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』
ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。
しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。」
使徒15:36~40

ここを読むと、パウロはマルコに対して厳しい評価をしています。
その結果、パウロとバルナバは分裂することになります。

「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」テモテⅡ 4;11

ところが、この手紙の中では、マルコを「役に立つ」と評価しています。
パウロは、かつての失敗体験を真摯に悔い改めたのです。
誠実に失敗を認めて悔い改めたパウロ。
マルコをつぶしかけた失敗体験への悔い改めが、ここに結実しています。
悔い改めたら、そこからスタートできます。
神は失敗をも用いてくださいます。

9月2日 聖日礼拝

マタイの福音書 25章 14~30節
「タラントを用いよう」
             大治福音自由教会 服部真光師

この箇所は「タラントのたとえ」としてよく知られています。
内容は理解しやすいでしょう。
「主人」は神をたとえ、「しもべ」はクリスチャンをたとえています。
神が私たちにゆだねてくださっている物を用いることが大切だという教えです。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」25:29

結論はこれです。
これを正しく理解すると、たとえがよく分かります。
「資本主義社会そのものだ」という人がいます。
しかし、これは「持っているものと持たない人がいる」ということを教えているのではありません。

① 全ての人が例外なく神からタラントをあずかっている

多くの日本人クリスチャンは
「タラントなんて、そんなものは持っていません」
「才能なんかありません」
「私には能力がありません」
と言います。
それは「謙遜傲慢」というものです。
神は「与えた」と言っているのです。
神が与えたものを、しっかり受け取っていないと言っているのと同じです。
「あの人のようには持っていない」かもしれません。
それでも、持っているはずです。
まず、神が与えたと言うことを自覚することです。

「タラント」はお金の単位です。
1タラント=6,000デナリ。
1デナリは成人男性の一日分の給与に相当します。
日本円で1デナリを10,000円として換算すると、一番少ない1デナリをあずけられた人でも6,000万円任されたことになります。
まず、「与えられている」という自覚が大切です。
タラントと言う言葉は日本では「タレント」に変化しているので、「芸能人のような特別な才能」というイメージがあるようです。
しかし、聖書によるとすべての人がタレントを持っているのです。
そして、才能がある人ほど努力をするということもあります。
たとえばスポーツではイチロー選手は、基本を毎日繰り返すそうです。
慢心しないで、コンスタントに努力する。
天の御国はこのような価値観によって支えられています。

私たちの人生は、神によってタラントをあずけられている人生です。
人生の尾張には精算の時が待っています。
「与えられたタラントをどう用いたか、結果を持っておいで」と。
子どもは学校から通知表をもらいます。
私たちは、生涯の記録を神に提出します。
神が私にゆだねてくださった物全体がタラントです。
それは能力に応じて、与えられています。
自分で選択できる者と、できないものがあります。
性別、貧富、生きる場所、それらはスタート時点で違っています。
神は私たちの能力を見ておられます。
人生は平等ではありません。
オリンピックで金メダルを取れなくても、自国の記録を塗り替える選手もいます。
その人の能力を最大限に生かすことが、神の栄光を現すことになります。

「劣等感」を感じるとき、神は私にもタラントを与えていること、自分らしく生きればいいことを思い出しましょう。
人と比較する必要はありません。
自分らしく生きることを期待しているのであって、背伸びする必要はないのです。

② タラントは用いるようにゆだねられた

多さが大事なのではありません。
用いるか、用いないかの違いです。
ゆだねられたものを、責任を持って用いることです。
神は私たちに、忠実であることを求めています。
「忠実」とは、「信頼できる」「信用できる」という意味です。
金額は問題ではありません。
5タラントのひとは5タラントもうけました。
2タラントに人は2タラント。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」25:21

主人の喜び、とは何でしょうか。
儲けた額ではありません。
信頼して任せたとおりの結果を出したことが大切です。
なぜ1タラントの人に厳しいことを言われたのでしょうか。
1タラントあずかった人は、もう1タラント儲ける才能があったはずだからです。
神の目にはそう見えていました。
ところが、その人は人生からタラントを切り離しました。
タラントのことは忘れて、自分の人生を行きました。
これが神に対する姿勢の違いです。
「怖い」「失敗したら生けない」と尻込みする。
臆病になる。
ためらう。
そんな姿勢を責められました。

人生の終わりに、私たちは記録を持って行きます。
あなたは胸を張って持って行けますか?
できないことではなく、できることを。
尻込みせず、臆病にならず、ためらわず、タラントを用いていきましょう。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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